元和元年五月七日書状案
昨日六日ニ大坂飯守之下ニて大和口へ人數六七萬出候處ニ 藤堂手前にて合戦候而敵數多
討捕候 伊井掃部手・本田美濃手にて合戦候而首數多上り候 大坂ニ而物頭果候衆 木村 井伊直孝・本多忠政
長門・後藤又兵衛・鈴木田隼人にて候事 木村重成・後藤基次・薄田兼相
一 今日七日午之刻ニ大坂江少シ御寄被成候處ニ 茶磨山より岡山迄取續六七萬も可在之候 此方
之人數を立 自是ひゝ物無理ニ合戦を懸候處ニ及一戦候 數刻相支申候 半分ハ此方へ半
分ハ大坂江勝申候へ共此方之御人數之段數多ニ付御勝被成不残相果候 度々之せり合中
/\推量之外ニ候 本田雲州も討死小笠原兵部殿も手を負候 是ニ而推量可在之候 我等 本多忠朝 小笠原秀政
事先書ニ申入候様ニ鉄炮頭三人其外小性計にて大坂へ参相合戦候事
一 鑓つき候者 一番七介 二番縫殿・佐藤傳右衛門・藪三左衛門・佐方與左衛門・吉住半四郎・ 清田石見
續孫介 右之鑓寄候衆之者崩ニ成候處ニ七介・縫殿両人馬を入きらせ候事
一 又其後大崩ニ成候處ニ松井右近一人取テ返し候處ニ酒井左衛門も披見候 左衛門小性も
右近と返シ中程迯又右近側へ返しつる筈を取候刻右近甲首取候事
一 七介儀鑓之鋒を突曲申候 傳右衛門も二本之鑓之鋒をつき曲申候
一 首貮ツ亀介 首貮ツ主水 首壹つ賀賀山半兵衛 首壹つ朽木與五郎 首貮つ主水内之者共取
候事
一 大坂御城御天守今日申ノ刻ニ火かゝり不残御果候 一時之内ニ天下泰平ニ成候事
一 此状之内被見候而草臥さる飛脚ニ持せ豊前へ下し可被申候 取紛書状書兼申候 以上
五月七日 越中守忠興
内記殿
又申候我等小性共迄物ニ相候事申上候ヘハ大御所様御前へ被召出候 是にて仕合推量
可在之候
(大日本近世史料・細川家史料一 九六 p121~)
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大坂の陣の終わりをつげる一日の顛末である。忠興は三日に兵庫、五日に山崎に着き淀に於いて家康に対面している。
家康は忠興に対し側近に詰めるように下知している。以降書状案の通りであるが、著名な諸将が命を落としていく中、忠興配下の者は後世に名を残す
鑓働きをしている。秀頼・淀殿も命を落とし遂に豊臣家の命運もここに尽きたのである。