細川家では、忠利の申しつけで葡萄酒が造られるようになったが、その第一号は寛永六年(1629)十月一日上田太郎右衛門尉により弐樽が上げられた。細川小倉藩「日帳」に、葡萄酒製造に関連する記事が見える。向後恒例化していくことが分かる。
■寛永五年九月十五日 上田太郎右衛門ニ、中津郡ニ而ぶどう酒被成御作候
手伝ニ、御鉄炮友田二郎兵衛与中村源丞遣候、御郡ニ而、がらミ薪ノち
んとして、五匁・銭五貫文ヲ遣候、又歩之御小性(ママ)赤尾茂兵衛ハ、
右之さけ作ならひ候へと申付遣、今度ハ江戸へ上田忠蔵被召連候、太郎
右衛門より忠蔵ニ、作様をしへ遣申候へきとの、御意ニ候、忠蔵煩其外
之時之ためニ、歩之御小性をしへと候へと、被仰出ニ付、御供番三与ノ
内より、丈夫成仁を改被出候へと申ニ付き、赤尾茂兵衛をさし上候、
申渡し、太郎右衛門所へ遣候事
■寛永六年九月十八日 御小人孫介ニ ふたう酒作こミ候樽弐つ 上田太郎右衛
門へ持せ遣候 右孫介かへりニ 太郎右衛門口上よりて被申越候ハ 黒大つ
并手伝無越候 何も此方よりて調可申由 被申候事
■寛永六年十月一日 上田太郎右衛門登城ニ而被申候ハ、ふたう酒弐樽被仕
上候、手伝ニハ、竹内与谷口次左衛門尉と申者也、中津郡より今晩持せ来
候事
■寛永七年四月七日 上田太郎右衛門所へふとう酒作候手伝ニ松岡久左衛門
与高嶋九左衛門付候也、芦田與左衛門与中橋孫右衛門付也
■ 同日 右酒作候奉行ニ高並権平遣也
■寛永七年四月十四日 歩之小姓海田半兵衛登城にて被申候ハ、今度ぶどう
酒の御奉行に、高並権平被仰付候へとも、まえかとより拙者仕つけ申候
ニ付而、歩之頭共より差替申候由にて登城仕候、可然候由、申渡候也 2007-11-08 09:32:19 から
ここに出てくる上田忠蔵なる人物についての記述を最近見つけ出した。
熊本縣史料・近世編第二 部分御舊記 御書附并御書部 廿二 (p191)にある忠利の書状である。元和九年(1623)四月九日日付となっている。
上田忠左衛門せかれ忠蔵事ひ(ら脱カ)とへ遣し石なとひき候
色々のてだて忠蔵おぢ存候由ニ候間ひらとへ忠蔵を遣し習
はせ可申候 万力と申おもき物を引道具有之由候 おなしく
ハひらとにて誂先壹ツ取寄調法成ものニ候ハゝいかにも
かくし候而可申付候 其外何にても左様之きとく成儀候ハ
ゝ習候へと可申候 忠蔵奉公ニも成候ハゝをしへ可申由申
由承候間左様之事を存候ヘハ家中共ニ重宝成儀ニ候間忠
蔵ため迄も可然候間其段具忠蔵にも可申聞候 銀之入候儀
ハ可申付候
この上田忠左衛門こそ我高祖父・上田久兵衛の家祖とも云うべき初代の人物なのだが、この忠蔵が忠左衛門の子であるという史料として貴重である。
実は忠左衛門の弟が平戸に居り、忠左衛門の二男が養子と成っている。二人が熊本に旅した折の記録も残っており、(memo上田久兵衛家初代周辺)遠く390年ほど昔の事がこの様な史料でつながれて来た。
忠左衛門の子供として、久兵衛・加左衛門・忠蔵という男子三人と、松井家家臣山本源右衛門に嫁いだ女子の存在が確認された。