津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

加藤家御改易之節之事(十六)

2012-05-10 11:02:05 | 歴史

寛永九年七月廿三日妙解公より御奉行江御書之内 全文御書付並御書部御家中江之御書通之条下ニ出
一 肥後之熊本被請取候八代も同日ニ被受取筈候条是も別
  儀有間敷と存候 城受取候との儀上使衆可有御注進候間
  我等かたより注進申間敷由右ニ年寄衆へ申入候而置候条
  無其儀候事

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  七月廿四日四ツ時分ニ首尾能隈本御請取候由目出度存候 江
  戸へ之御状箱二ツ廿三日牛之下刻ニ参著仕則大坂へ両使を
  相添舟二艘ニて差上せ申候 右両通之内一通ハ因幡殿ニ被留
  置候様ニ申遣候 恐惶謹言
        七月廿三日
             稲葉丹後守様
             伊丹播广守様
             石川主殿頭様
  尚/\八代御請取候御注進可有御座と待申候而罷有候已上 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小須賀覚書の編者について

2012-05-10 09:31:06 | 史料

 5月8日 小須賀覚書 を書いた。ガラシャ夫人の生害を記したものとして知られるが、「霜女覚書」のように高く評価されていない。霜女覚書は事件の当事者が書いたものであるのに対し、小須賀覚書は聞き書きであることによるのだろう。
この小須賀覚書を記した人物についてまったく知識を持っていなかったのだが、今般埼玉の柏木様(これまでTK様と御紹介してきた)から、まことに詳しいご教示をいただいた。これまでも種々のご教示に預かっており改めて深く御礼を申し上げ、お許しを頂きここに御紹介する。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

管見の限りにて、小須賀九兵衞につき以下の通り報告いたします。

 

小須賀九兵衞は伊勢の人です。

安濃津に居住していましたが、大坂陣で九鬼守隆手にて安宅船二艘を預かって武功がありました。

後に平戸の松浦鎮信へ召出され三百五十石を宛行われています。

その子が小須賀瀬兵衞で、二百五十石を継ぎ、先手鐵炮を預かっています。

この親子にはそれぞれ以下のような関連する書物があるようです※。

九鬼水軍に関する著作があり、或は平戸に著作が伝来しているのは、

この親子が九鬼家、平戸松浦家に奉公していたためと存じます。

 

※以下は国文学研究資料館・東京大学史料編纂所・熊本大学附属図書館のデータベースによるものです。

 

■「小須賀聞書」一冊(平戸松浦詮伯爵所蔵)

■「小須賀聞書」一冊

■松浦家旧記所収「小須賀覚書」一冊

■「小菅九兵衞覚書」一冊

■「志津ヶ嶽合戦小須賀九兵衞話」(志津ヶ嶽小須賀話、志津ヶ嶽合戦事小須賀九兵衞話、小須賀九兵衞賤ヶ岳記)

■小須賀信之の「小須賀氏聞書」(見聞集)五巻五冊

■小須賀信之の「小須賀氏筆記」(慶長集)五巻五冊

■小須賀信時の「関原集」二巻一冊

 ■小須賀瀬兵衛の「九鬼家船闘記」

 

以 上

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

荘村省三と四つ石畳紋

2012-05-10 08:47:26 | 家紋

現在藩士各家の家紋を調べているが、なかなか思うようにはかどらないのが現状である。

                                              四つ石畳紋

先に 西南の役と旧熊本藩士・荘村省三 を書いた。荘村省三は日本で二番目に洗礼を受けた人として知られる。処がこの人のお墓は花園柿原の天福寺にある。
http://www.kumamoto-waterlife.jp/map/pub/detail.asp?c_id=6&pg=1&mst=&scl=2000&posx=130.7081333&posy=32.80323333&la_all=0&id=26&s=m&wd=
昭和30年郷土史誌の日本談義1月号に著した高田素次氏の論考「荘村省三ノート」を読むと、孫の鹿吉氏を尋ねいろいろ聞き取りをした後、家紋を尋ねたら「正十字の石畳紋」であるといわれ、「偶然ではないような気がした」と記している。慶応二年二月、「表門と裏口に見張りの人を立て・・・・厳重な警戒をした」上で洗礼を受けた省三は、何故曹洞宗の寺院に葬られたのか・・・。墓石にも刻まれているのだろう「石畳紋」を高田素次はまさに「十字架」と連想し、微笑を以て合点したのであろう。

ちなみに石畳が連続するいわゆる市松模様は、江戸時代の歌舞伎役者初代佐野川市松が、舞台で白と紺の正方形を交互に配した袴を履いて人気を博したことによるとされる。

                                              

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする