徳川家康の三女振姫の死去に係ることが元和三年(九月)書状(141)にみえる。
*1 *2 *3 *4
一 浅野但馬所へ被遣候 姫君様御遠行ニ付 采女殿・肥後所へ人を可遣之由意得候
遅候而もくるしからす候
遅候而もくるしからす候
紀州和歌山藩主浅野長晟(*1)に嫁いだ振姫(*2)が亡くなったため、長晟弟長重(*3)と振姫の娘婿である加藤忠廣(*4)に対して弔問の為の使いを出すように指示した書状である。
蒲生秀行亡き跡、父家康の命により幼子を残して浅野長晟の元に再嫁した振姫であったが、後に安芸広島藩主となる光晟を出産後しばらくしての死去である。
ウイキペディアは「高齢出産」などと紹介している(38歳)が・・・
長晟の先代である兄・幸長は、加藤清正と協力して二条城における家康と豊臣秀頼の会談を実現させた人物として知られるが、秀吉夫人高台院の身内として豊臣家に対する思いは深いものがあったと思われる。長晟の元に高齢の振姫を嫁がせたのは政略結婚の一面を垣間見せる。
ウイキペディアは「高齢出産」などと紹介している(38歳)が・・・
長晟の先代である兄・幸長は、加藤清正と協力して二条城における家康と豊臣秀頼の会談を実現させた人物として知られるが、秀吉夫人高台院の身内として豊臣家に対する思いは深いものがあったと思われる。長晟の元に高齢の振姫を嫁がせたのは政略結婚の一面を垣間見せる。
蒲生秀行の遺児二人はそれぞれ継嗣がなく蒲生家は断絶、加藤忠廣に嫁いだ娘には嫡子光正が誕生するものの加藤家は断絶し蒲生の血は途絶えた。
一方わずか十数日で生き別れとなった光晟の血筋は、営々と明治に至っている。分流に三次藩があったが後に断絶した。
長重(*3)の血が赤穂藩へと続いている。
熊本においては安國寺に蒲生秀行、往生院に振姫の立派な供養塔がある。忠廣室・崇法院が父母を偲び建立したものであろう。
一方浅野家は細川家と因縁浅からぬものがあり、その交流の次第は多くの文書でうかがうことが出来る。
一方浅野家は細川家と因縁浅からぬものがあり、その交流の次第は多くの文書でうかがうことが出来る。