熊本市の東隣に位置する益城町は、一時期熊本市との合併論議があったが住民の意思を以てこれにNOの答えを出した。
そんな益城町には多くの寸志侍の存在がある。其の出自を尋ねると大変興味深いものがあるが、益城町史からそのリストを御紹介する。
■古閑
・坂沢家 ・福岡家 ・良峯家、安藤家
■広崎
・永田家 ・富永家 ・吉田家
■福富
・福島家 ・永井家
■惣領
・荒牧家 ・川崎家 ・末武家 ・吉村次作 ・庄屋清九郎
■馬水
・緒方家
■安永
・守住家 ・石原家 ・橋本家 ・伊等家 ・飯田家 ・山川家
■平田
・小堀家 ・箕田家 ・原田家 ・津川家 ・松永家
■福原
・伊藤家、井芹家 ・後藤家 ・(針峯の先祖記念碑) ・山内家 ・九鬼家 ・安尾家 ・安田家 ・河添家 ・吉山家 ・米村家 ・宮田家 ・守田家
・園山家 ・福島家 ・中村家 ・宇佐川家 ・山陳の宇佐川家 ・原田家
■田原・寺中
・水村家 ・坂本家 ・今村家 ・福本家 ・山田家 ・高濱家
■津森下陳・上陳
・下田家 ・水村家 ・嶋田家 ・塩山・永島家 ・永田家 ・馬場、福永家(上陳) ・陳家 ・中村家(啓一) ・中村家(儀平太) ・田島家
■小谷・杉堂
・青木家 ・富永家(橘郎) ・富永家(嘉一郎) ・富永家(清庵) ・津田家 ・結島又三郎 ・吉本家 ・矢島家 ・大西家
■上砥川
・西園寺家 ・有馬家(平左衛門) ・有馬家(繁左衛門) ・中村家 ・永瀬家
■小池
・猿渡家 ・吉田家 ・北村家 ・福田家 ・芦原家 ・岩崎家 ・坂本家 ・森川家 ・津田家 ・田口家 ・永田家 ・永村家 ・宮本家 ・江島家
・原口家、富田家
■東無田
・宮崎家 ・米村家 ・坂田家 ・福永家 ・衛藤家 ・大賀家
■櫛島
・中島吉右衛門 ・中嶋要七 ・中島幾七 ・守嶋家 ・谷家 ・三村家
■下砥川
・中林家 ・美濃部家 ・冨田家 ・豊田梶右衛門 ・豊田仙右衛門 ・豊田新九郎 ・倉本家 ・源四郎 ・冨田恒彦 ・冨田茂兵衛 ・半兵衛
・久我家 ・坂井家 ・山下家
■木山
・松田家 ・富岡家 ・中川家 ・矢田家 ・角田家 ・田中家 ・吉田家 ・重村後福永家(清左衛門正明) ・福島範正(弥一郎) ・山村孫兵衛
・藤岡孫兵衛 ・富島善作 ・西田家(木山町村) ・木村家 ・都山円助 ・津山家 ・藤岡家 ・緒方清五郎
以上 134家 (完)
大日本近世資料・細川家史料三を読んでいたら、忠利宛三齋の書状(807)に次のような一行があった。
日付は寛永七年四月十七日である。
一、藤十郎妹谷蔵人へ被申合由 親子共可為大慶事
藤十郎とは、細川藤孝(幽齋)の末弟・三渕好重の子宗由(山名・長岡)のことである。長岡右馬助(三渕家初代)の四弟である。妹とあるのは幾久姫であり、これが谷衛友の五男・蔵人衛長に嫁いだことを慶んでいる。(その日時が確認できたのがうれしい)
細川家と谷家の係りは大変深いものがある。衛友亡き後の相続問題にも細川家は深く係っているが、残念ながらこのことについての結果は忠興の意に沿うものとはならなかった。 このことについては、かつて書いた 丹波山家藩・谷家の跡目騒動 で御覧頂きたい。
衛友(寛永四年没)の没後の谷家に関する忠興の思いは複雑であったようだが、この慶事についてはいっぱいの慶びを顕している。