木下右衛門大夫延俊の息女の縁談話が元和六年正月十日書状(199)にある。忠興妹・加賀の娘(於岩)のことである。
(1) 木右衛門殿息女縁邊之事 曽又左へ具ニ申遣候 其内阿部備中殿子息へ之事調申度候 右衛門殿も
其方へ可然様ニ申候へと被申候事
元和六年三月十九日書状(205)には状況が変わった記事がある。
(2) 右衛門殿息女縁邊之事 松平大膳殿一段可然候 又左相談候て可被調候 右衛門殿書状遣候
又右衛門殿より我々への返事も進之候 又左ニも可被見せ候 年いくつニなられ候哉是も承
度候事
(1)が不成立であったから改めて(2)の話が登場してくる。その後の経過は二三の書状に散見される。
そして「祝言(元和八年)七月廿日ニ相調候由珎重候事」とみえる、八月十六日付書状(343)がある。
(1)の阿部備中守子息とは相模小田原城主・阿部忠次息政澄のこととされる。
実はこの人物は、加藤清正の息女・古屋姫を正室として迎えた人である。
畏友・福田正秀氏の著「加藤清正妻子の研究」によると、其の結婚は「元和八年からすぐの頃」「将軍家の計らい」によるとされている。
つまりは(1)の話は早い段階で終わっていることになる。
(2)の話はどうやら成立している。松平大膳とは遠江濱松城主松平忠頼息忠重である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E9%87%8D
歴史は面白い巡り会わせを見せてくれる。松平忠重夫妻の嫡男忠倶は正室に松平定行の養女を迎えたが実は阿部重次の娘である。
阿部重次とは阿部正澄の弟であり、正澄がなくなった後阿部宗家を継ぎ老中をも勤めた人物である。
加藤清正--------古屋
:
+----細川忠興 +--阿部正澄
| |
+------- 加賀 +--阿部重次--------●
: :
:-----------於岩 :
: : :
木下延俊 :--------忠倶
松平忠重 参考: もしかしたら
書状から垣間見られるちょっとした情報を追いかけると、誠に不思議な人間関係に出くわして思わずガッツポーズをしてしまう。
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5:12am10:50 追記
寛永五年八月十九日書状(670)に次のような記事があった。
一 乍次而申候 阿部備中殿(正次)殿子息(正澄)當月上旬(四日)病死之由候事
加藤清正女古屋姫が嫁いだ阿部正澄の死去の記事である。その結婚生活がわずか六年ほどであることが判る。