津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

忠興姪=木下右衛門大夫延俊の息女の縁談

2012-05-25 15:23:47 | 歴史

 木下右衛門大夫延俊の息女の縁談話が元和六年正月十日書状(199)にある。忠興妹・加賀の娘(於岩)のことである。

(1) 木右衛門殿息女縁邊之事 曽又左へ具ニ申遣候 其内阿部備中殿子息へ之事調申度候 右衛門殿も
    其方へ可然様ニ申候へと被申候事

 元和六年三月十九日書状(205)には状況が変わった記事がある。

(2) 右衛門殿息女縁邊之事 松平大膳殿一段可然候 又左相談候て可被調候 右衛門殿書状遣候
    又右衛門殿より我々への返事も進之候 又左ニも可被見せ候 年いくつニなられ候哉是も承
    度候事 

(1)が不成立であったから改めて(2)の話が登場してくる。その後の経過は二三の書状に散見される。
 そして「祝言(元和八年)七月廿日ニ相調候由珎重候事」とみえる、八月十六日付書状(343)がある。 

(1)の阿部備中守子息とは相模小田原城主・阿部忠次息政澄のこととされる。
 実はこの人物は、加藤清正の息女・古屋姫を正室として迎えた人である。
 畏友・福田正秀氏の著「加藤清正妻子の研究」によると、其の結婚は「元和八年からすぐの頃」「将軍家の計らい」によるとされている。
 つまりは(1)の話は早い段階で終わっていることになる。

(2)の話はどうやら成立している。松平大膳とは遠江濱松城主松平忠頼息忠重である。
                http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E9%87%8D

 歴史は面白い巡り会わせを見せてくれる。松平忠重夫妻の嫡男忠倶は正室に松平定行の養女を迎えたが実は阿部重次の娘である。
 阿部重次とは阿部正澄の弟であり、正澄がなくなった後阿部宗家を継ぎ老中をも勤めた人物である。


       加藤清正--------古屋                      
                    : 
 
  +----細川忠興  +--阿部正澄
     |                        |
  +------- 加賀  +--阿部重次--------●
          :                   :
                    :-----------於岩       :
          :          :        :
              木下延俊        :--------忠倶
                                   松平忠重                        参考: もしかしたら

                         
書状から垣間見られるちょっとした情報を追いかけると、誠に不思議な人間関係に出くわして思わずガッツポーズをしてしまう。

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5:12am10:50 追記
寛永五年八月十九日書状(670)に次のような記事があった。

一 乍次而申候 阿部備中殿(正次)殿子息(正澄)當月上旬(四日)病死之由候事

加藤清正女古屋姫が嫁いだ阿部正澄の死去の記事である。その結婚生活がわずか六年ほどであることが判る。 

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書状を読む(五) 忠興の眼病・一

2012-05-25 08:50:54 | 歴史

 随分以前だが熊本大学医学部の眼科教授から、細川忠興の眼病に興味を持たれていろんな史料を読んでいる旨のメールを頂戴したことがある。
忠興に限らず眼病にかかった人のことについては数多く記録に見える。重賢公夫人由婦姫は光を失われたとも言う。
考えてみると私の子供の頃も「目やに」をつけた子が沢山見受けられたし、ホウ酸を水で溶かしてガーゼに浸して目を洗うということをやっていた。 
眼病に限らず、虫による諸病、結核、疱瘡などの疾病が、現代に至りようやく治療が容易に行われるようになったことを思うと、これらの病による恐怖の程は如何ばかりであったろうかと推察される。

 元和四年忠興はほとんど視力を失うほどの眼病を煩い、随分苛立ちを見せている。同年閏三月二日の内記(忠利)宛書状(153)を眺めてみよう。
 

       (尚々書略)
   目相煩ニ付而土居(井)大炊殿・本上野殿迄様子申入候条令申候 両人への案河北ニ渡候間
   可有披見候
一 二月七日八日時分より目を煩出候事
一 同廿日時分より両眼共ニひしと見へ不申候事
一 安晴・利齋をはしめ爰元之目醫師數人ニ養性させ候へ共一切驗無之ニ付 従大坂眞嶋と申
   目醫師呼下 同廿八日より初三月十九日迄つくろはせ候ヘハ左之目ハ明申候て今ハ二間三
   間先ノ人をハ見知申程ニ成候事
一 右之目ハうハひ候て少も見え不申候 かけ薬にて養性申候は少ハ見え候ハんよし申候へ共
   一切驗無之候間初三月十九日ニ舟を上せ板伊州を頼京都にて上手之目醫師一人御下候        京都所司代・板倉勝重
   へと申遣候 定而可下候其醫師ニ逢候て重而様子可申事
一 只今ハ右之目ハすてニ仕 左之今能かたニをこりさめ御入候間 此かたのつゝき候様ニと養
   性半候事
一 此比當地を罷立其地(江戸)へ可致参上覺悟候處ニ目煩故遅参迷惑此事候 是ニ付國にて養
   性申候ヘハずいなるやうニ候間京へ上り養性仕度候 第一公儀又ハ京にて大勢之醫者ニ
   も見せ申度候條一日も早上度候へ共舟ニゆられ輿ニ乗候儀中/\念もなき事候間無其
   儀候 舟・輿ニ乗程ニ候は無由断上り吉田にて養性可申覺悟候事
一 初三月廿日時分迄ハ寝間を餘所へ出候事一切不成候而 京之醫師をも寝間迄呼申躰候つる
   あたまも右之かた半分はれ つらハ両方共ニはれ うつき申事中/\難盡筆紙候つる 此
   比うつきひしとやミ つらのハれあたまのハれも十之物七ツ八ツなをり申ニ付去月廿四日
   ニ表之居間まて出申候事
一 于今身をあらくあつかひ聲高ニ候ヘハ其儘目へ血さしこミ申躰候條ありき申事も于今自
   由ニ無之 如此候故舟輿ニ乗候儀念も無之候 此段土居大炊殿・上野殿・喜介殿・藤泉州其
   外我々無等閑衆ヘハ能々可被語候事
一 目之煩ニ付臥りてまて居申付 積差出申 万病圓呑申度候へ共 若目ニたゝり候てハと各申
   ニ付無其儀候 乍去いつものことく餘つよくハをこり不申候事
一 母にて候人ヘハはや目本復にて頓而下候由申入候間可被得其意候事

             (その他略)
        潤(閏)三月二日                     越 忠興 印

               内記殿
                  進之候

 閏三月廿四日書状には、将軍秀忠の見舞いの使者が小倉に到着「忝儀難盡筆紙候」と忠利に書き送っている。
 四月朔日書状には、将軍秀忠に対しての禮使を派遣したこと、又土井大炊の紹介で尾州真(馬)嶋大法院が遣わされることを喜び
 期待している様が伺える。
 ところが六月二日の書状(162)に於いては、又々症状が悪化していることが伺える。(抜粋)

一 尾州目薬師(馬嶋大法院)療治ニ而結句能方之目かすミ出候間法院はや上申候 大坂之目薬師又よび下
   はや下申候 此療治前かとよりやハらかに覺申候間能方之目今少かため候て吉田迄上養性
   可申覺悟ニ候 此由大炊殿をはじめ各へ此由可被申候事 

 その後状況も一進一退であるが、六月廿六日の書状(163)では良くなる験(しるし)を感じている。

一 我々目大坂真嶋慶圓療治にてかくのことく得験候間近日罷上吉田にて養性可仕と存候(以下略)

 そんな中「母にて候人ヘハはや目本復」と取り繕うほど気遣いしていた、母麝香(光壽院)が重篤となる。七月一日の書状(164)

一 (略)光壽院殿御煩之様子具被申越候 御老躰ニ候間気遣千萬ニ候 され
   共與安法印よりの書中其方よりの書中ニ今之分ニ候はくるしかるましきやうニ被申越候
   先以安堵候 我々目も先書ニ如申候大方得験気申候 然共道なとはやくありき候事ハ念も
   なく候ハぬ躰ニ候へ共重而之注進を待もし大事と被申越候はむりニも可下候 吉左右
   待申計候 其方より之注進由断有ましきと存候へ共餘気遣ニ候て先承かけニはや道進之候
                     (以下略)

 七月十日書状(165)抜粋

一 我等目先書ニ如申候 得少験候 其上光壽院殿御煩ニ候間来ル十三日當地を罷出候 (略)
一 我々事目も少験ニハ候得共 未散々ニ煩候 其上近年不覺程ニ積差出候間道をはやくあ
  りき候事成間敷候條光壽院殿御煩之様子替儀候は路次迄も切々可被申越候 為其早打下
  申候 此者(使者)ハ其方ニ置 其方之達者成者此状参著次第夜晝之無堺早々可被越候

 七月廿五日の書状(167)においては、十三日に出船したけれども向かい風になり十六日ようやく中国路に取り付たがその後の旅路も難渋していること をるる述べている。そして母親の臨終に間に合わずとも訃報あるまではなんとか下向するとしている。そして葬儀のことについて細かく指示している。
 目は再び悪化している

一 我々目  (中略)                   右之目は捨ニ仕左之方之ひとみ大法印 
  療治にて上下へほそ長ク罷成事之外かすミ申候を 大坂慶圓療治にて十之物九程迄丸ク成
  其位ほと見え出候處ニ光壽院殿之儀ニ気遣又は今日迄十三日舟ニゆられ申心候哉 無
  残所仕合悪無是非儀と存候

 と散々である。                   (つづく)

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