元和五年正月五日書状(折紙)
尚々其方使者ハ方々江参之由候間はやき便宜ニ此状遣候 已上
為年頭之祝儀被差越使者 太刀一腰・馬一疋代銀壹枚到来幾久と珎重ニ候 次ニうら付肩
衣三ツ・堺之たまり二桶祝著ニ候
一 小笠原右近殿江いつそや御約束申候中津之殿主儀 右近殿次第ニ可被渡候 幸舟所ニ御入
候間殿主うけ取奉行御乗せ候て舟御下候へと被申遣 請取奉行下次第ニ念入色め可被渡
候 立御用満足申之由可被申越候 恐々謹言
越
正月五日 (ローマ字印)
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元和元年大坂の陣において小笠原秀政・忠脩父子は戦死している。右近こと二男忠眞は傷を負ったが見事な鑓働きをしている。
其の故をもって信濃松本八万石を相続した。兄忠脩の未亡人である亀姫を家康の命により正室とした(元和二年)。
そして元和三年七月廿八日には播磨の明石十万石に転封となった。
忠眞は忠利室・千代姫の兄である。父と兄を失った忠眞に対し心のこもった援助をしている。
元和一国一城令にもかかわらず、支城中津城も城割を免れている。この中津城の天守を明石に差し上げるというわけである。
さて、この話が実行されたのかどうか私は承知していない。どなたか御存知であればご教示頂きたい。
小笠原忠眞 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E7%9C%9F
明石城 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%9F%8E