津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

mino阿弥氏コメント・・「加藤氏」

2012-10-15 16:43:25 | 史料

mino阿弥さまにはいろいろご教示をいただいているが、再度のコメントをいただいた。ここに御披露申し上げる。

・コメント
加藤氏は、ごく普通に考えれば加賀の藤原氏であり、加賀の武士団の主流は藤原利仁流だと思います。
蛇の目紋は加賀の藤原利仁流、桔梗紋は土岐明智氏流に由来するのではないかと推測されます。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」によれば明智国篤の室は尾張修理大夫義種女とされていますが、斯波義種女ではないかと思います。斯波義種の娘の子である明智頼秀は長禄元年卒とされています。この年、斯波義敏と守護代甲斐常治の被官が騒乱を起こし義敏の被官が幕府と甲斐常治の兵に討たれています。
頼秀の弟明智頼方(母斯波義種娘・頼秀と同母)の養父加藤正吉は、この斯波氏と甲斐氏との間の長禄合戦か、または美濃国七代守護土岐持益と守護代斎藤氏が推す土岐成頼(のちの八代守護)との相続争いで討死したのではないかと考えられます。
いずれにしても明智(加藤)頼方は母の縁により尾州に移り斯波武衛家に仕えると書かれていますから、明智、加藤氏ともに斯波氏と関わりがあったのではないかと思います。
また、加藤氏は、農民や鍛冶屋であったなどと諸説ありますが、もともと美濃の目代であった守護代斎藤氏(藤原利仁流)や後斎藤氏(斎藤道三)に仕えた武家であったと思われます。美濃には新田義貞討死後、弟の脇屋義助とともに加賀の武士団が美濃根尾谷に落居していますが、それ以前からも北陸から多数の人々が美濃に移住していると思います。

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新史料発見

2012-10-15 08:24:52 | 史料

佐久間半丞召出しに関わる初出の史料発見
 熊本縣史料 近世編第二「部分御舊記二」の御書附并御書部・廿二(p213)の、西郡要人佐・浅山修理亮あて光尚の書状の猶々書である。

       猶/\佐久間半丞と申者様子候て召拘候 春ハ追付其元へ差下にて

       可在之候 知行ハ三千石ほとゝ相心得可申候屋敷入可申候間其心得
       を仕可然所を屋敷奉行共と令相談書付可越候 已上 
           (寛永二十年)
            十二月廿七日          肥 光尚 御判

 その後の事は以前記した 細川家家臣・佐久間氏 に書いたのでご覧いただきたい。

 

坂崎勘右衛門(清左衛門三弟?)は、某資料によると嶋原一揆(寛永十五年)の際死亡した(25歳)とあるが、以下の二件の史料により間違いだと思われる。 
 (1)熊本縣史料 近世編第二「部分御舊記二」の御書附并御書部・廿二(p224)の、西郡要人佐・浅山修理亮あて光尚の書状(抜粋)である。

       坂崎勘右衛門儀天草城番仕候處ニ又■(宀ニ取・最)前之煩指發候ニ
       付清左衛門承付呼取勘右衛門知行を差上勘右衛門儀は清左衛門知
       行取へ遣置候由其意得候 年寄共かたより何とも不申越候付不存分ニ
       候間可有其心得候事
           (寛永二十年
             七月廿九日          肥 光尚 御判
 

 (2)熊本縣史料 近世編第二「部分御舊記二」の賞賜并選挙部・二(p367)

       坂崎勘右衛門ニ知行高三百石分之物成蔵米ニ而相渡者也 
           寛永十九年十月十四日御印
                            奉行中 



 

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