津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

mino阿弥氏コメント・・「加藤氏」その三

2012-10-22 16:24:28 | 史料


「明智氏一族宮城家相伝系図書」によれば、三宅氏には明智頼秋、頼秀の兄弟として国朝がいて、三宅越後守入道浄山、住羽栗郡三宅(現岐阜県岐南町三宅か)と書かれています。また、光秀の父とされる明智光綱(本名光隆)の兄弟明智光安(明智家後見)の子に宮城兵内(住尾州宮城村)、光俊(三宅弥平次・明智左馬助本名光春)、光景(明智次郎八、号三宅孫十郎)。光俊の子に宗俊(三宅弥惣次、後改宮城弥十郎、宮城長頭右京亮)。宗俊の子に宮城又之丞、宮城平次郎などが見られます。
また、加藤清正は善政を敷いて肥後の人々に慕われているようですが、「熊本城公式ホームぺージ」などを見ると、清正についてどの程度研究されているのか不審に思われます。
家紋の性格としては、下賜された又は出自を表わすために用いられたと解釈するのが普通ではないかと考えます。
改易された尾藤家の家紋を、そのまま加藤家の家紋にしたという説明は、加藤清正の出自や名誉を貶めるものではないかと思われます。
たとえ一次史料とされるものであっても誤りはあり、反面、口碑伝承、伝記、系図類は史実として証明することは困難ですが無視や軽視をしては、歴史研究は成り立たないのではないかと思います。
他県の者から見れば、加藤清正について、もう少し広範囲で慎重な研究が必要ではないかと思われます。

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熊本県立図書館百周年記念・ロビー口座 時習館を学ぼう「改革の柱は時習館」

2012-10-22 14:44:59 | 熊本

            ロビー講座チラシ

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城下町大改造

2012-10-22 11:53:49 | 地図散歩

 先の大雨で白川の氾濫により甚大な被害を受けた熊本市竜田陣内地区は、原始を思わせるような大きく蛇行する川筋に舌のように大きく南側に飛び出している。
阿蘇でも一宮で大被害が出ているが、上流部の大量の降雨を集めて白川に流れ込んだ水は、高低差を利用して激しさを増し行く手を遮るような陣内地区を襲ったのである。今にしてみれば、何故こんなところに住宅地が形成されたのだろうかと、首を傾げるほどである。

 慶長国絵図をみると白川は城下に至って陣内同様(こちらは北側方向)に大きく蛇行している。現在の熊本市役所前の坪井川と繋がっていたことがわかる。
この舌のように飛び出た蛇行を正保期に改修して直線化した。現在慶徳小学校がある辺りにかっては慶徳堀という池(?)が在ったことが絵図で伺えるが、どうやらこれが且ての白川の流路が取り残されたものである。そして流路切断された坪井川は、新たに開鑿され熊本城の長塀に沿うようにして流れくだり、横手へいたり当時の祓川(井芹川)に合流した。(のち井芹川も開鑿されて流路を変更する) こうして、白川・坪井川・井芹川に囲まれた総曲輪が形成されたのである。

下って白川と坪井川は併行することになるが、清正公はここに石塘(いしども)をつくり、水量が増したときの白川の水を坪井川へ落とす工夫を施している。
まさに清正公が土木の神様といわれる所以である。

陣内地区の河川防災の工事を始めるためにいろいろ検討が行われているようだが、高い護岸が為されるのであろう。日ごろは静かな川の流れに親しんできた人たちにとっては、輪中で生活するような感じになるのだろう。早い段階で河川の直線化が為された熊本中心部は、なんとかぎりぎいで越水を免れた。
改めて絵図を眺めながら先人の知恵に驚かされるばかりである。

下にある論考の内、絵図だけでもご覧いただきたい。 

       加藤清正による流水制御法「白川の石塘}の機能評価
           http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/15109/2/Civil-16-2010-02r.pdf

            

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