熊本大学 第7回永青文庫セミナー「竹原家故実と細川藩」が、平成24年11月3日(土)14:00~15:30 熊本大学文法棟1階A2講義室で行われる。
詳細は次の通り。 http://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/sites/default/files/eiseibunko-seminar-7-2012.pdf
深水氏については私は余り知識を持たない。人吉相良氏の一族だとされる。県南・水俣あたりが本貫の地らしい。
細川藩政時代はこの地方の惣庄屋等を務めていたようだ。
細川護久の生母が深水氏である。すなわち細川齊護の側室・田鶴である。齊護の11人の子女の内、護久と夭折した女・眞を産んでいる。
深水氏女、田鶴 天保十二年辛丑五月十九日卒ス 法号興願院 熊本西福寺ニ葬ル
ィ(養母 峯) ィ(生母 家臣加藤氏養女 実ハ水俣氏女・乃婦 延)
その護久の側室が、深水氏女・縫である。護成、嘉壽、宣、志津の一男三女を産んだ。
高田泰史氏の御労作「平成肥後國誌」の「細川志津子」の項をみると、次のようにある。
深水頼寧三女・ヌイ 嘉永四年正月十九日水俣に於いて出生、大正十四年六月十九日没
慈雲院浄法妙充日洽大善尼 小沢町西福寺に墓がある
護成は47歳で死去、その継嗣が細川護立氏である。嘉壽は22歳、宣は21歳で死去した。
志津は明治19年、阿蘇惟孝と結婚したが 同30年に離婚復姓し、その後は海を臨む三角の細川別邸で過ごした。昭和7年没、61歳。
この母子は、志津の離婚後は一緒の生活をしたのではなかろうか。
縫は志津のことを「おひいさま」と云い、志津は母のことを「ばあや」「ヌイ」といったという。誰も居ないところでは「かあちゃん」と云ったと高田氏は書いているが、志津が云ったのか、縫が自らをそう云ったのか文脈から判断しかねるので、高田Drのお説をお聞きしたいと思っている。
残念ながら深水氏の血は途切れてしまった。西福寺を訪ねてみようと思っている。
同十年二月縣地変動ニ付
御子様方處々御立除御供申上城兵打出矢部郷迄
進撃■漸クニ四月廿六日北岡江御帰邸被遊候ニ付而御供ニ而
帰宅仕候同五月十日御用有之東京表江被差立旨御達
有之十二日発足小倉路通行馬関より乗艦同月廿二日
着京直ニ御用筋相勤今戸濱町両御邸江勤仕候内
濱町様御着京被遊種々御用ニ付滞京仕候 但右ハ引返ト被仰付候へ共切文之通
一、明治十年十一月十六日當春変動之際
御子様方處々御立除御供ニ付彼是必定之苦心
有之候ニ付表桜御紋附紬御羽織一金子弐拾五圓
同十一年一月御改革ニ付葉桜御紋附紬御単一紬縞
御綿入一金子六拾五圓下約候
一、明治十一年二月八日帰縣被仰付今度
御下縣御供可相勤旨被 仰付候同二月十二日東京御発途
御供ニ而出立東海道御通行神戸より御乗艦小倉御上
陸ニ而小倉路御通行同月廿七日高瀬より被遊御着御供
ニ而着仕候其後當前之御奉公相勤申候三月三十一日
御子様方御上京ニ付而は當職被御免北岡邸守衛被
仰付四人扶持并出勤日當下約座班之儀高岡一太郎
上座ニ被仰附置上覚三■申続相勤
御子様方御居間向守衛いたして二ノ御間以下居住被
仰付志垣一静申■御掃除向守受持相勤候様■為此節
御子様方御立跡諸御道具御取纒一件をも申■候様
右之通被 仰付候ニ出勤御道具■■メ相済四月廿日迄ニ而
家丁以下引拂庶務懸森繁夫・小崎俊彦両人ハ其後日々御■用
調ニ而出勤右御■用相済両人共引拂家族共御邸江移
轉仕右御守衛相勤居申候明治十三年三月一日
御子様附家従被 仰付月俸拾弐圓五拾銭被下置旨
被 仰付候
於嘉壽様 於志津様被遊御下縣當前之御奉公
相勤候内
於嘉壽様ニは御一門細川興増殿江御内縁給被整四月
一日より御滞留として御日喜越被遊候ニ付御供相勤申候
於嘉壽様ニは北岡御邸被遊御住居候ニ付森繁夫庶務
懸被命■番ニ出勤申候右之通ニ而事務差支候節は ■阝ニ侖トアル
高岡一太郎・佐藤求吾・志垣一静・高岡数弥及経
産方■より助勤致候様兼而被■■旨御達ニ相成候
一、明治十三年七月廿四日當春以来種々御用向格別多端
之處いつ連も勉励いたし候ニ付思召を以當節金子千三百疋
下約候
一、飯田町護美公より御當家御道具等取扱彼是御注
意ニ付表桜御紋附紬御単物一紬縞綿入羽織一
被為拝領候
一、明治十六年
三位様護久公御墓参として御下縣中御側向
御用相勤同八月御帰京ニ付引返御供相勤東京
表廿日滞京仕候中右御供御滞縣中御側向御用
相勤候ニ付紬縞一反
奥方様より博多帯地外御早々下約九月廿五日着
縣仕候