この書状は、寛永十四年十一日~十四日、御使番・井口勝左衛門が天草に於いて三宅藤兵衛に接触した状況を、後日(十五年七月廿三日)組頭・明石源左衛門を通じ、家老などにあてて報告したものである。
三宅藤兵衛殿本戸(本渡)ニ御座候由相聞へ申候ニ付 御老中より御状被遣候ヲ片山左助・私両人持参仕候
先様之様躰段々御注進申候得と被仰付壱人ニ浦船壱艘御鉄炮五丁宛乗被遣候 若一揆共ニ参會りししん成
儀有之候とも如何様ニ仕候而成とも御注進申事肝要之由被仰付十一月十一日之夜半ニに川尻を出船仕明ル
十二日昼の七ツ時分ニ本戸へ著仕候 左助ハ藤兵衛殿御返事ヲ取早速罷帰候 私ハ本戸之様子為可承届ニ
一日逗留仕候 然に唐津衆上津浦表へ番船を出し置被申候所に一揆とも上津浦より船数ヲ出シ鉄炮打立ニ付
番船ハ同十三日之夜半時分に本戸へ押入申候 然ハ近日一揆とも本戸へ取懸申由風聞仕候間私逗留仕候ハ
ゝ一揆取掛申時唐津衆一所に罷成より外之儀ハ有御座間敷候 左様ニ御座候間随分かまい不申候様ニ仕罷
帰在見届申度存候つれ共一揆衆共之船をかけ申所ニ而御座候ニ付私共舟ヲ懸置儀不罷成候間藤兵衛殿ニ
御いとまを申御老中江之御状を請取候而同十四日之夜明に船を出し三里ほと参候所ニ上津浦より人数を出し
舟とくがとより小嶋子・大嶋子其外村々放火仕無程本戸ヲ焼立申候を海上より見届ケ申早々罷帰右之通御老
中へ申上候事
(熊本縣史料・近世編 第三 部分御舊記・軍事部十 p203~4)