地図上に於いては前回表示したものとほとんど変わっていない。軍の練兵場が新たに表記されている。10年の西南役において焼失の表示がないところを見ると、当時は既に建物などはなかったのであろう。
城内にあった藤崎宮が井川渕の現在地に移り、加藤神社が京町台の巌根橋のあたりに動いている。熊本県庁が古城(ふるしろ)に移り、熊本地方裁判所、熊本電信局なども明治11年に設けられた。小学校の整備が進み熊本中学校も設立された。軍都熊本といわれるように、町の中央部はまさに軍の施設ばかりである。
□で表示した内坪井という地区は、のちにご紹介するために表示をしたが、上林から現在の上熊本方面へ抜ける道まだ京町台で遮られており、坪井川の流路もまったく変わっていない。次回は内坪井の絵図をみながら、現在の状況と対比してみたい。
熊本県立美術館本館 及び 永青文庫展示室
「細川家の婚礼」展
http://www.museum.pref.kumamoto.jp/event/kikaku/20121005-1216_hosokawakonrei/index.html
八代市立博物館・未来の森ミュージアム
八代城主・加藤正方の遺産
http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/museum/event/2012/2012_aut.html
此の地図は昭和21年5月に発行された貴重な「大東京區分地図・小石川區明細圖」である。東京在住のTS様から平成18年1月御恵贈いただいたものである。
細川小石川邸があった高田老松町は左側中央からやや下の所にある。朱線が引かれた道路下の一角全てが細川邸である。
私の祖父が細川家のお役間勤めをしていた関係で、私は昭和17年ここで生を受けた。76番地が出生地として届けられているが、まさに現在の永青文庫のあたりである。永青文庫はかっての細川家の家政所の建物が使われており、その周辺にお役間勤の人たちの職員住宅 (?)があったらしい。
日本画家・堅山南風、漆芸家・高野松山といった錚々たる人たちも爰に住まわれた時期があったようだ。
鶴亀の二本の大きな松ノ木があってこれが老松町の名前の由来だという。
前の道路が現在の目白通りである。