津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

高見武之家の明治 (一)

2012-10-07 10:02:11 | 史料

 先に 珍しい先祖附 でご紹介した、高見武之家の明治廿三年十月まで記載された先祖附から、明治以降のものをご紹介する。
高見氏の記述により、細川家の動きも見て取れる。4~5回ほどでご紹介できるのではないかと思っている。
一回目は西南戦争直前までである。
 

                     一、明治三年七月四日於藩廰御用有之新御屋形内傳
                       被 仰付當前之御奉公相勤居候内内傳之御役名被廃
                       新御屋形奥掛家従と被改同年九月廿日表家従之場

                       をも相勤候様被 仰付座席是迄之通近士(仕ヵ)然之■ニ被附
                         置旨御達ニ相成申候其後當前之御奉公相勤申候
                     一、明治四年八月朔日御用之儀有之東京表江被差登旨
                       御達有之御側御女中同道同月十二日熊本出立
                       四月廿日東京着仕候九月家従被 仰付奥懸をも
                         相勤居候様被 仰付相勤居申候内座席久野加傳上座ニ
                         被付置旨御達御座候當前之御奉公相勤め申候
                     一、同五年九月朔日御用ニ付帰熊被 仰付同日東京出立

                       同十日着縣御用相済十月十二日家内同道出立同廿日東
                       京着當前之御奉公相勤申候内同年布達ニ実名通
                       称二案之中一名ニ相改候様との旨ニ付武之ト改名仕候
                     一、於東京濱町御邸御用有之明治六年六月廿八日兼々
                       出精相勤御改正ニ就而者逐次職員■別而事勞多
                       端ニ候處万事厚心を用昼夜心常心勞いたし候ニ付御紋
                       附絽羽織一紬袷御綿入一召賜候當前之御奉
                       公相勤居候中明治七年二月廿四日

                       顕光院様為御窺東京御發途被遊候ニ付御供被   細川齊護室・益姫、当時66歳
                       仰付東海道筋御通行大坂より郵便艦被為召馬
                       関御上陸小倉路御通行ニ而三月十三日御着御供ニ而
                       着仕候跡地ニ而當前之御奉公相勤居申候四月十七日
                       當地御発途乃登丸江百貫石(港ヵ)より御乗船ニ而
                       長崎江御渡海同廿一日アカンザ艦御乗船神戸
                       御上陸夫より大坂伏見伊勢路東海道御通行
                       御下縣御同様ニ而五月一日東京濱町御邸江被遊御着

                       御往来御滞縣中御人少■(参ヵ)而骨折候ニ御紋附
                       木綿御単物地一反被下置候其後當前之御奉公相勤
                       居申候内同年九月廿一日當分北岡邸
                       御子様江被附置旨候条用意済次第爰元差立旨被
                       仰付候ニ付十月三日東京家内共召連發足東海道陸行
                       奉願伊勢大神宮参拝同廿三日縣地着仕
                       御子様方江御奉公當前相勤居申候内石場新櫓側岩永
                       一路家居御借替ニ而相借被 仰付直ニ引移申候其後

                       當前之御奉公相勤居申候明治八年七月廿日
                       顕光院様御凶変ニ付言上として同月廿二日早打ニ而
                       爰元被差立小倉路通行下ノ関より乗艦廿六日神戸江
                       着港候處
                       今戸様 韶邦公
                       濱町様 護久公
                       顕光院様御窺として御下縣被遊候處同所ニ而御行合
                       申上御病気御以来御大変之儀委敷言上仕翌廿七日

                       御左右御別申上同廿九日着京所々様江右御用相勤
                       東京表御人少ニ付暫ク滞京致し御奉公相勤居候間
                       縣地より御用之筋被 仰越候ニ付八月十四日東京出立同
                       廿一日爰許着仕候其後當前之御奉公相勤居申候同九
                       年一月
                       益姫様御病中以来御凶変ニ付而長より各別心配いたし炎
                       暑中■ニ東京江■差越彼是出精相勤候ニ付九曜御紋
                       附紬御袷一金子千五百疋下賜候明治九年二月十五日

                       迄近仕掛家従ニ而
                       御子様江被附置候處近仕掛長より被免替ニ
                       御子様附家従被 仰付職前相當之月俸下■旨御達
                       御座候座班之儀は是迄之通其後當前之御奉公相勤居
                       申候同年十月廿四日神風連百餘人突然鎮臺營乱入     
                       其外縣官舎等初所々乱入宿所之放火炮撃夥敷
                       玉如雨放火益盛ニ相成候ニ付
                       御子様方乱玉為御用心宇土桂原御末家之御別邸江

                       御立除被遊候節御供申上候處翌日ニ到り鎮静ニ相成ニ付
                       廿六日御帰邸被遊候其後當前之御奉公相勤居申候 
 

                    (■については現況判読できずにいるが、時間をかけてつぶそうと思う)

                        

              

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珍しい先祖附 (ニ)

2012-10-07 08:17:30 | 地図散歩

先に 珍しい先祖附 を書いた。明治廿三年十月に至る細川家御奉公のことが書かれていて、このような先祖附は他には見出せないのではないか。
明治以降の20数ページの内約1/3ほどをタイピングと平行して読み終わったところだが、なんとなくその訳がはっきりしてきた。
主人公は高見武之なる人物である。廃藩後も旧藩主・齊護室顕光院に仕え、没後は熊本において御三方様と呼ばれる護久の娘、嘉壽(九歳)・宣(七歳)・志津(六歳)に仕えた。
そして神風連の乱、西南の役が勃発し武之は御三方を守り、あちこちと68日に及ぶ逃避行の指揮をとるのである。このことについては、三澤純氏の論考「お姫様たちの西南戦争-史料の解題と紹介」に詳しい。高見武之の名前も見える。
                                    http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/3270/1/BR0093_73-109.pdf 

しかしこの逃避行に至る直前にも、宇土細川家の別邸・桂原邸(宇城市の蕉夢庵ヵ)に一時ひなんしたことがこの先祖附から判明した。
以降「御三方様」はじめ其の生母(御側御女中とある、深水氏女・縫)のお世話に努め、また婚礼支度などを任されて奔走している。 
明治期の中ごろまで、細川家を支えた武之だが、この珍しい先祖附がなぜ突然終わったのかは明らかではない。 

写真は左から二女・宣、長女・嘉壽、三女・志津である。長女・嘉壽は細川刑部家13代・男爵興生に嫁いだが、明治23年22歳で亡くなっている。二女・宣は伯爵松平直亮に嫁いだが、明治24年22歳で没、三女・志津は明治19年男爵・阿蘇惟孝に嫁いだが同30年離婚、三角の海を望む高台の別邸で暮らしたが、昭和7年に死去した。61歳。

                                      

                                         熊本県宇城市三角町の「細川御殿」

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