先に 珍しい先祖附 でご紹介した、高見武之家の明治廿三年十月まで記載された先祖附から、明治以降のものをご紹介する。
高見氏の記述により、細川家の動きも見て取れる。4~5回ほどでご紹介できるのではないかと思っている。
一回目は西南戦争直前までである。
一、明治三年七月四日於藩廰御用有之新御屋形内傳
被 仰付當前之御奉公相勤居候内内傳之御役名被廃
新御屋形奥掛家従と被改同年九月廿日表家従之場
をも相勤候様被 仰付座席是迄之通近士(仕ヵ)然之■ニ被附
置旨御達ニ相成申候其後當前之御奉公相勤申候
一、明治四年八月朔日御用之儀有之東京表江被差登旨
御達有之御側御女中同道同月十二日熊本出立
四月廿日東京着仕候九月家従被 仰付奥懸をも
相勤居候様被 仰付相勤居申候内座席久野加傳上座ニ
被付置旨御達御座候當前之御奉公相勤め申候
一、同五年九月朔日御用ニ付帰熊被 仰付同日東京出立
同十日着縣御用相済十月十二日家内同道出立同廿日東
京着當前之御奉公相勤申候内同年布達ニ実名通
称二案之中一名ニ相改候様との旨ニ付武之ト改名仕候
一、於東京濱町御邸御用有之明治六年六月廿八日兼々
出精相勤御改正ニ就而者逐次職員■別而事勞多
端ニ候處万事厚心を用昼夜心常心勞いたし候ニ付御紋
附絽羽織一紬袷御綿入一召賜候當前之御奉
公相勤居候中明治七年二月廿四日
顕光院様為御窺東京御發途被遊候ニ付御供被 細川齊護室・益姫、当時66歳
仰付東海道筋御通行大坂より郵便艦被為召馬
関御上陸小倉路御通行ニ而三月十三日御着御供ニ而
着仕候跡地ニ而當前之御奉公相勤居申候四月十七日
當地御発途乃登丸江百貫石(港ヵ)より御乗船ニ而
長崎江御渡海同廿一日アカンザ艦御乗船神戸
御上陸夫より大坂伏見伊勢路東海道御通行
御下縣御同様ニ而五月一日東京濱町御邸江被遊御着
御往来御滞縣中御人少■(参ヵ)而骨折候ニ御紋附
木綿御単物地一反被下置候其後當前之御奉公相勤
居申候内同年九月廿一日當分北岡邸
御子様江被附置旨候条用意済次第爰元差立旨被
仰付候ニ付十月三日東京家内共召連發足東海道陸行
奉願伊勢大神宮参拝同廿三日縣地着仕
御子様方江御奉公當前相勤居申候内石場新櫓側岩永
一路家居御借替ニ而相借被 仰付直ニ引移申候其後
當前之御奉公相勤居申候明治八年七月廿日
顕光院様御凶変ニ付言上として同月廿二日早打ニ而
爰元被差立小倉路通行下ノ関より乗艦廿六日神戸江
着港候處
今戸様 韶邦公
濱町様 護久公
顕光院様御窺として御下縣被遊候處同所ニ而御行合
申上御病気御以来御大変之儀委敷言上仕翌廿七日
御左右御別申上同廿九日着京所々様江右御用相勤
東京表御人少ニ付暫ク滞京致し御奉公相勤居候間
縣地より御用之筋被 仰越候ニ付八月十四日東京出立同
廿一日爰許着仕候其後當前之御奉公相勤居申候同九
年一月
益姫様御病中以来御凶変ニ付而長より各別心配いたし炎
暑中■ニ東京江■差越彼是出精相勤候ニ付九曜御紋
附紬御袷一金子千五百疋下賜候明治九年二月十五日
迄近仕掛家従ニ而
御子様江被附置候處近仕掛長より被免替ニ
御子様附家従被 仰付職前相當之月俸下■旨御達
御座候座班之儀は是迄之通其後當前之御奉公相勤居
申候同年十月廿四日神風連百餘人突然鎮臺營乱入
其外縣官舎等初所々乱入宿所之放火炮撃夥敷
玉如雨放火益盛ニ相成候ニ付
御子様方乱玉為御用心宇土桂原御末家之御別邸江
御立除被遊候節御供申上候處翌日ニ到り鎮静ニ相成ニ付
廿六日御帰邸被遊候其後當前之御奉公相勤居申候
(■については現況判読できずにいるが、時間をかけてつぶそうと思う)