津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

大垣藩主・戸田家

2012-10-13 16:44:26 | 新聞

                           ≪ウィーンに六段の調≫の画像

                        大垣市守屋多々志美術館・「生誕100年記念展守屋多々志の世界」展の案内から
                                  http://www.city.ogaki.lg.jp/0000002008.html

 

 毎日新聞のウェブサイト 毎日JP に 「ブラームス:琴を演奏した日本の伯爵夫人…子孫が絵と対面」という記事が掲載されている。
              http://mainichi.jp/select/news/20121013k0000e040228000c.html

最後の大垣藩主で、オーストリア全権大使になった戸田氏共(うじたか)の妻極子(岩倉具視の三女)のこととあって興味を引いた。
細川家十五代当主・護成の室・孝子(こうこ)がこの氏共の長女である。

忠興・忠利と親交があった戸田氏銕(うじかね・大垣藩初代藩主)からすると、280年ほどの時間を経ての縁戚関係となった大垣藩最後の当主である。
細川家に於いては護成に子がなかった為、男爵家を創家していた弟・護立が養子となり宗家を継いだ。

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外聞笑止

2012-10-13 10:20:00 | 史料

 寛永十六年(1639)九月十五日忠利は、息・光尚に対して長文の書状を発している。父・三齋の八代城普請に関することや、立允・刑部の禄を自らのものの如く管理することに対してのやりきれない嘆息が聞こえるようである。そして相手が息子であるとはいえ「(幕閣に対し)三齋年よられ色々被申候由年よられ外聞笑止ニ存候」とまで言い切っている。藩主である忠利を飛び越え、幕閣に対し直接書状を発する三齋をもてあまし、また幕閣の三齋に対するあまり良くない空気を感じ取ってのことである。あまりの長文に「自筆ニて返事可申候へ共方々江之数好(ママ・多ヵ)候間他筆にて申候」と断りを入れているが、内容は右筆にも憚られるものである。その後十八年(1641)三月十八日、忠利は熊本において没した。三齋も正保二年(1645)十二月二日八代において亡くなる。
そして忠利が頭を痛めた八代領の解体、宇土支藩の創立と新藩主光尚の小気味よい施策が、新しい熊本の時代を作り上げていくことになる。 

                                 (あまりの長文のため読み下し文をスキャンしてご紹介しました・・・・・) 

 

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