津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

絵図に熊本の変貌を見る・・(4) 明治初年の内坪井

2012-10-05 13:13:15 | 地図散歩

 明治初期の内坪井の図である。左手に蛇行しているのが当時の坪井川である。現在はわずかに細い流れが確認できる。右手は堀と土居が設けられていた。川と土居・堀に囲まれていたため内坪井と称していた。下部中央が旧・千葉城、上部の△の部分が宮本武蔵の旧居跡である。
で示した流路が開鑿された現在の坪井川である。昭和の初期まで待たなければ成らない。
横方向の大路は右手が藤崎宮方面、左はこの時期はどんずまり状態だが大正12年新堀が開鑿され上熊本方面へ繋がることになる。縦方向は新しい坪井川にそって大路が整備された。この図では見えないが千葉城跡は右方向に大きく膨らんでいたがカットされてしまった。

現在は藤園中・城東小がある辺りは千葉城町、道を挟んだ上部が内坪井、その上壷川小のあたりは壷川、川の右手上部は坪井、大路を挟んで下は上林町と町名が変わってしまった。図の中央の文としたところが加寿美学園、横井小楠の誕生地である。この一角の印の部分も横井覚の書き込みがあるが、のち夏目漱石が住まう家である。
       http://kyushu-tabi-gourmet.seesaa.net/article/150067910.html
       http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?type=A&id=79

大路と坪井川がクロスする左手の一角には、眼科医行徳の書き込みがあるが、現在もここで営業されている。
       http://www.gyoutoku-eye.com/ 

さて面白いのが、二箇所で塗りつぶした場所があるが、当時の道路改修により取り残された三角地である。上は写真屋さん、下はガソリンスタンド(閉鎖)である。脇に小さな路地があり当時の状況が見て取れる。流長院・丹後寺・真浄寺などは昔のままの位置にあり、場所確認にありがたい目標と成っている。 


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細川家家臣--坂崎家

2012-10-05 08:10:46 | 歴史

 坂崎家は藤原氏、家祖坂崎伝助は織田信長に仕え、尾州小豆坂七本鑓のうちとされ千石を領していた。嫡家は伝助の養嗣子・川崎兵庫助の養嗣子・清左衛門成政を初代とする。又伝助の息・半兵衛勝定が別禄六百石を拝領して創家している。後に千石取りとなり明治に至った。
その弟勘右衛門基之も別禄二百石にて嶋原一揆に出陣、惜しくも討死した。

この半兵衛家のご子孫からご連絡を頂き、嫡家の兵庫助成方が坂崎出羽守直盛の弟ではないかとのご連絡をいただいた。
             坂崎直盛       http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E5%B4%8E%E7%9B%B4%E7%9B%9B
             武家家伝-坂崎氏  http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sakazaki.html

直盛は本姓宇喜多氏、坂崎の名乗りは直盛を初めとして始まったとも考えられる。
兵庫助が弟ではないかとする柳生家の文書がある。柳生家は直盛とも親しく、千姫事件が起きたとき事件の処理に奔走したのが柳生である。
坂崎家の家紋であった「二つ重ね笠」を譲られて、柳生家の家紋にしたとされる。

さてその柳生家の文書は「玉栄拾遺」と呼ばれ、編者萩原信之によると宝暦八年細川家家臣鳥養市兵衛から「坂崎兵庫成るものが侍大将として三千石を頂戴している。これは坂崎出羽守成政(直盛)の弟で、元和のはじめ藩主に仕えた」と聞いて、記録に残している。
細川家は柳生家とも大変親しくしている。細川藩召出の肝煎は案外柳生家であったかもしれない。
ちなみに坂崎家に於いては「成」の文字を「しげ」と読むそうである。坂崎家は楠木正成の血をもひき、その故であるとされる。 

 

コメント (1)
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