津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

またまた地震の間

2012-10-17 22:04:35 | 史料

 熊本縣史料 近世編第二「部分御舊記二」の御書附并御書部・二十(p133)に地震の間に関する記述がある。
いつの時期のことか書かれていないこの書状だが、より具体的で興味深い。
                                   ママ
                一 熊本地震之事少つゝ切々陶候へ共此程ハ遠のき候
                  あふなく候て庭のなき本丸にハ被居不申候本丸ニハ
                  二条敷と有之庭ハ無之四方高石垣其上矢倉・天主
                  中/\あふなき事にて候事
                一 罷下得 御意地震屋を仕候庭を取不申候ヘハ本丸
                  ニハ被居不申候此由を柳生殿へ物語可申候事
                  以上
                       五月十一日          (忠利)
                           狩野是齋 

忠利が熊本城に居住し、急遽花畑邸に転居するのは二回記録されている。その後城内で居住することはなかった。
この事については 初期の御花畑邸 で書いたのでご覧いただきたいと思うが、寛永九年~十年にかけての熊本入国直後、次は参勤から帰国した十三年頃のことである。いずれにしても忠利が地震を恐れ城内には住めないことを物語っている。

                   

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絵図に熊本の変貌を見る・・(5) 明治26年

2012-10-17 10:31:36 | 地図散歩

坪井川・井芹川の流路が変更されるのにはまだまだ時間が掛かるし、磐根橋下が開鑿されるのにも至っていない。それでも大きな変化が見えたのは九州鉄道(現・JR鹿児島本線)の開通である。
小泉八雲(ラフカディオハーン)が、第五高等学校(現・熊本大学)の教師となって来熊したのは、明治24年(1891)11月のことである。西南戦争から14年経過し街中は復興しつつあるが、西洋化される町並みに八雲は不快感を隠せないで居る。明治29年(1896)4月には夏目漱石が八雲同様第五高等学校の教師として来熊、池田駅(上熊本駅)に下り立ち、急坂を京町台へ上がった。四年に及ぶ在熊中「草枕」や「二百十日」といった作品を残した。森鴎外が訪れるのは明治32年(1899年)9月27日のことである。

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