津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「肥後細川家切支丹宗門誓詞」 慶応元年 長岡治部丞 古文書

2014-03-03 21:28:35 | オークション

                    「肥後細川家切支丹宗門誓詞」 慶応元年 長岡治部丞 古文書_画像1

                                 「肥後細川家切支丹宗門誓詞」 慶応元年 長岡治部丞 古文書

 この治部丞様は刑部家四代興章の息・興恒が興した分家筋の七代目・幾次郎殿(明治三年改名・太一郎)のことです。細川家御一門の刑部家もこんなものを出されたのですね~。そういう意味では珍しいものですね(もっともこれは写でしょうが・・・・)
 

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■安政七年(万延元年)三月三日

2014-03-03 07:11:27 | 歴史

 新暦と旧暦の違いはあるが154年前の話である。
この日は桜田門外で大老・井伊掃部頭直弼が、水戸浪士によって殺害された日である。グレゴリオ暦3月28日、江戸に於いても遅い雪であったのだろう。この年は三月十八日に改元されているが、この事件が影響していることは間違いなかろう。そして11ヶ月後の二月十九日には文久と改元されることに成る。

事件後細川家に預けられた蓮田市五郎は、細川家家臣の乞いに応じて絵を残している。

                                「桜田門外之変」図(部分) 茨城県立図書館所蔵・部分

すでに掃部頭の首級は落とされている様子が伺える。駕籠脇に在った千葉なる御児小姓は、柄袋をかぶせた刀を抜くことが出来ず、主君を守ることが出来なかったが、この絵においても駕籠の上方に馬乗りに成られ後ろ傷をうけるまだ前髪立の若侍が描かれている。この人物かどうかははっきりしないが、千葉なる児小姓はその後寺に入り僧侶と成り終生掃部頭を弔ったという。絵を書き残した市五郎は文久元年(1861年)斬罪となった、享年29歳である。

年表稿を見ると、「三月三日大老井伊直弼、桜田門外にて刺客の難に会う。刺客八人本藩に預けられる。八日諸藩に預替」と記録されている。
当然この絵は細川家に遺されているのだろうが・・・・現物を見て見たいものである。

                               蓮田市五郎に関する論考として 桜田門の詩人蓮田市五郎 がある

追記:私はかつて杵築史談会の久米忠臣先生から「桜田門外の変」というコピーを頂戴した。
    この絵の正面に見えるのが杵築藩の屋敷である。杵築藩の藩士たちは長屋の窓越しに事件の一部始終を目撃したという。
    その記録の原文のコピーと釈文をまとめられたものを頂戴したのだが、生々しい事件の有様が背筋を寒くさせる。
    今日は改めて読み返してみようと思っている。 

                                                                        

                                                                 一昨五日細川様へ御預け右之通り
                                                              右から三番目に蓮田市五郎の名前が見える(杵築資料から) 

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