一、万取替候銀子貮百貫之儀米ニて必御返候へと申儀ニてハ無之候
銀子にて返弁一段能候へ共若調りかね候てハとの事ニ候 何にて
成共貮百貫目之都合元利御返候ヘハ事済候事
寛永二年十月十六日付忠利宛て三齋書状(抜粋)である。忠利が妹・万姫(烏丸光賢簾中)から借り受けた銀子の返還を三齋を通じて求められている。
さきには三齋が忠利に借金の申し込みを貮百五十貫頼んだことを書いた。(寛永十年二月廿四日付忠利宛て三齋の書状)
「金一両=銀50目」として5,000両としたが、この数字を使うと今回の万姫への借金は4,000両ほどという事に成る。それに金利がついているというから、莫大な金額である。
三齋の万姫に対する愛情は、その知行の大きさでも判る。2,000石である。烏丸家の俸禄は1,000石だというから、その倍である。細川家と烏丸家の代々に亘る良好な関係は、細川家の財政援助がもたらしていることは自明の事である。
万姫様はその莫大な財産の故も有って、当時の京都の女性の浪費家の三本の指に入ると、熊倉功夫氏はその著「後水尾天皇」で指摘している。そして万姫様は、この件に限らず細川家借金の最大の金主である。
お金貸します も出所は万姫様であることは間違いない。
寛永十二年九月七日・書状 これは忠利から河喜多五郎右衛門に宛てた書状の抜粋だが、ここにも借金の記録がある。
又、二日後の 九月九日書状案によると、細川家はの金銀不足は江戸城普請役を仰せつかっていることによることが判る。とうとう忠利は、三齋を通じて妹の万姫に泣き付いている。万の子供達の分も借り上げようというのであり、事は深刻である。
まん銀子之事申越候此方より直ニ申候てかり候筈ニはや申合せ候事
万処へ申上せ候三百貫目之銀子■や調候由、道より被仰越候、万方よりも今日申来候、未御普請ニハ金銀足事にて無御座候間、
万子達之かねも御座候ハヽ、員數承かり候ハヽ、申上せ度奉存候、親子中とてじだらくニハ申付間敷候間、其通万ニも可被仰付候事
じつは三齋も万姫から三千両の借金をし、こちらは返済することなく他界した。この時は万姫が度量の大きいところを見せて、金はよいから「御道具成とも被下候様に」と、養女・お佐舞(初代宇土細川藩主行考夫人)に申入れをしている。 http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/20166512a0bc7f7e276b4fedc4e56986
これ以降も天草島原の乱や、長崎への外国船来航の警備出役など膨大な出費が細川家を苦しめた。
慢性的な手元不如意は、宝暦の改革で一時期改善されたものの、借金返済が滞り「細川家は怪しからぬお家柄」などと噂された。
鍋・釜などを買ったさいには、紙に「細川」と書き貼りつけると、金気がとれるなどと揶揄された。
この様な状況は藩政時代を通じ改善されることは無かった。
まん銀子之事申越候此方より直ニ申候てかり候筈ニはや申合せ候事
万処へ申上せ候三百貫目之銀子■や調候由、道より被仰越候、万方よりも今日申来候、未御普請ニハ金銀足事にて無御座候間、
万子達之かねも御座候ハヽ、員數承かり候ハヽ、申上せ度奉存候、親子中とてじだらくニハ申付間敷候間、其通万ニも可被仰付候事
じつは三齋も万姫から三千両の借金をし、こちらは返済することなく他界した。この時は万姫が度量の大きいところを見せて、金はよいから「御道具成とも被下候様に」と、養女・お佐舞(初代宇土細川藩主行考夫人)に申入れをしている。 http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/20166512a0bc7f7e276b4fedc4e56986
これ以降も天草島原の乱や、長崎への外国船来航の警備出役など膨大な出費が細川家を苦しめた。
慢性的な手元不如意は、宝暦の改革で一時期改善されたものの、借金返済が滞り「細川家は怪しからぬお家柄」などと噂された。
鍋・釜などを買ったさいには、紙に「細川」と書き貼りつけると、金気がとれるなどと揶揄された。
この様な状況は藩政時代を通じ改善されることは無かった。