昨日のブログでは、堀平太左衛門を推挙したのは 竹原勘十郎(6代・玄路)であることを書いた。
又その前に書いた「軍陣之作法少々聞書」を記したのは、竹原清太夫(分家初代)である。この軍陳之作法は武田吸(ママ)松斎から清太夫の父(2代・金左衛門)が指南を受けた記録(寛永八年)である事が奥書に記されている。
その2代目について、寛永十二年の三齋の書状にその消息がある。
以上
切紙拝見申し候有玄(有馬玄蕃?)ゟ我等所江も使を今朝給候
めいけんの事竹原少左衛門むす子ニて候 武田流を少左衛門
覚申候きとくなる儀ニて候以上
六月七日 三齋
越中殿
御返事
それ以前、寛永九年十月七日同じく三斎の忠利宛書状として、次のようなものがある。
三齋がいかに庄(少)左衛門を重用していたかをうかがわせる文書だが、これは二代庄左衛門の跡を二男・清太夫が受け継いだことを顕している。
(綿考輯録・巻二十二)
竹原少左衛門以之外相煩、半死半生之体ニ候、此もの心安ニ付、
いか様之事も書せ申候処、果候へは、はたと事をかき申事ニ候、
幸むすこ清太夫能所へ参候間、これを親ニ付て上せ申度候、左
様ニ被申付候ハゝ満足可申候、為其申候、已上
十月七日 三斎
越中殿
さらに時代を遡る記事が綿考輯録にある。(第一巻・幽齋公p185) これは家祖・市蔵(墨斎玄可)についてである。
幽齋君丹後へ被召連、慶長元年正月御児小性被召出、知行百石被下、後に庄左衛門と改候、三齋君百五十石の御加増被下、御伽に被仰付
候、能書なるを以、幽齋君御代筆被仰付、書礼の事、故実をも御伝へ被成、呼松斎へ御相伝の御取次并写本等も仕り、一色一遊齋へも仕付
方の弟子に被仰付候、三齋君よりも御口授等被遊、御両君御卒去以後も猶稽古不相止、隠居名を墨斎玄可と云
竹原家は阿蘇家の庶流であるが、この市蔵(後・少左衛門)は幼少期、阿蘇家65代惟種の代「不測の事」があって薩摩に逃れ島津氏に仕えた。
幽齋が薩摩を訪れた際、市蔵(9歳)なる人物の才知・能書を愛し龍伯に請い京都に連れ帰っている。阿蘇を出でて心ならずも薩摩に赴いた竹原氏が、幽齋公に出会ったことが運命的であり、偶然は豊前へ肥後へと古里へ近づけた。
(1)庄左衛門・墨斎玄可 (2)少左衛門 (3) (4) (5) (6)
市蔵惟成---金左衛門---+---少(庄)左衛門)---甚十郎惟秋---市蔵惟重(惟清)---勘十郎
| 分家・初代
+---清太夫惟永
そのご子孫は現在、武田流流鏑馬の家元として熊本で活躍されている。