寺本直簾の「古今肥後見聞録」に面白い記述がある。「土蜘蛛伝説」があり、朝来名(アサコナ)山の大きな岩屋にこの土蜘蛛が住んでいたというのである。
土蜘蛛とは大和朝廷に抵抗した土豪を卑しんだ呼称だとされる。神話の世界に登場する土蜘蛛が居た場所が、意外に近い場所であったとは驚きである。いろいろ調べてみると、肥前国風土記や肥後国風土記逸文に益城郡の朝来名峰として登場している。寺本直廉の文章を見て見よう。
益城郡朝来名の嶺に土蜘住て虫の類に有ぞ古岩穴抔ニ住し人多今人云強盗のたぐひ成へし如是ものを土蜘と云り
王命に背しかば建男組に命して是を誅せしむ 宮軍城営日々に益せし故益城の郡の名起りしと云
其土蜘誅せし朝来名の峯今や不分明のよし(1)井沢氏 (2)成瀬氏抔も云れし (3)森本氏の説にハ
中山の内安見山の邊なるへしと云り 宇土の士(4)佐方氏の説にハ木原山の内仙人谷と云所に岩
屋あり古へ土蜘住せし所也と云り
予か聞し説にハ上益城郡福原村に朝来名山と云所あり今國君ノ矢箆を切らせらるゝ山なり
此山奥等道にハ人も至らす洞あり其山の迫に大き成ル岩屋歴然として有 大石を以て壁にし五間
七間の石を以穴の屋根とし其丈夫成事云難し 偏ニ人倫の作し業とは見へさるよしそ 其穴の内に
ハ数十人ヲ込てもせばからす 里人鬼の岩屋と云し由語る 然らハ朝来名山と云近所ニ有ば旁土蜘
篭し處の説等據(ヨンドコロ)あり 上古の事なれバ星霜遠々として不分明聞し侭ニ記す
健緒(男)組といえば、我々熊本人の祖「火(肥)君」その人である。
「肥後風土記」は失われて存在しないが、「肥前風土記」に健緒組という名が見える。
肥君等祖健緒組
崇神天皇の御代に、肥後国益城郡の朝来名峯の土蜘妹を肥君等の祖の健緒組の率いる部隊を派遣して討滅した後、健緒組が国中を巡察した際、八代郡の白髪山で日没となって宿営をしたとき、大空に火が自然に燃えて少しずつ下にさがって、この山について、かがり火のようであった。後で健緒組が天皇の威霊によって賊を無事に討滅できたことと不思議な火のことを天皇に奏上したら、今まで聞いたことのない不思議なことであるとして火国と名づけられ、功を賞して健緒組を火君として火(肥)国を統治させた。
寺本直廉はこれらの事を承知していたのだろう、見事な解説している。
井沢(蟠龍?)、成瀬(久敬?)氏は場所を知らないとしているし、森本(一瑞?)、佐方(?)両氏の説は論外であった。
私は平成2年熊本日日新聞社が刊行した「くまもと里山紀行」という本を持っている。山登りには縁遠い私が、なんでこんな本を買ったのだろうと不思議なのだが、今になってみると歴史の勉強の上で大いに役立っている。益城町木山方面から年中どの季節でも、朝日が昇る「朝来(あさこ)山」を見ることが出来るという。「朝がやってくる」山ということであろう。寺本直廉の文章に有る「朝来名山」である。その山の西に戦国時代まで福田(ふくでん)寺という天台宗のお寺があった。そこに至る道筋に「鬼の岩屋」という岩屋が残されている。写真を見ると巨石古墳ではなかろうかと思わせる。
直廉の文章によると、益城町の名の起りなども記されており、新たな発見であった。
福田寺や鬼の岩屋については、益城町の教育委員会あたりで調査が行われているのではないかと期待しているのだが・・・・