津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■古今肥後見聞雑記から -- 緑川という名の由来

2014-03-08 08:19:31 | 史料

 熊本の川の名前を見てみると、白川・黒川・緑川となんとも短絡的でそっけない。それぞれの川の名前の由来を見て見ると、白川・黒川については、「白川は二源あり、其阿蘇谷より出づる者は水濁りて清からず故に黒川と云ひ、其南郷谷より発するものは水澄みて清し故に白川と云ふ。」という説があるが、凡そそうであろう。緑川については、矢部町(山都町)在住の郷土史家 井上清一氏の説として、「緑川流域は川に恵まれたところで、杉の成育が大変よく、藩政時代には酒樽として、灘の醸造元に送られていた。この原木の杉丸太は筏を組んで河口まで搬送おり、豊かな清流に沿川の杉の緑が川面に映え、緑色を景して誠に美しかった。故に緑川の名がある。」とされている。

 「古今肥後見聞雑記」に、これだという説があった。

            一、みとり川ハ百合若大臣の寵愛せしミとり丸と云鷹此川上より出し故の名也と土俗の語傳へなり

百合若大臣の鷹の伝承がこの辺りに有るとは驚きではあった。又、肥後琵琶には演目に「百合若大臣」があるという。内容はどんなものだろうか。
今後はこの説をもって緑川命名の由来としていただければ有り難い。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■「第3代肥後国熊本藩主 細川綱利書状」赤穂浪士 古文書

2014-03-08 07:31:36 | オークション

 ここでは大きな画像表示をしませんが、「第3代肥後国熊本藩主 細川綱利書状」赤穂浪士 古文書が出品されています。興味がおありの方が多いようで、沢山の方が応札されているようです。

                                                「第3代肥後国熊本藩主 細川綱利書状」赤穂浪士 古文書

 赤穂浪士とありますがこの書状は事件とは全く関係ありません。
この書状は、将軍綱吉が柳沢吉保の屋敷に御成りに成ったとき、綱利が御先詰を勤めたことを光栄に思い、細川家一族の長岡内膳と同じく図書に報告として宛てた書状です。
松平美濃守と有るのが吉保ですが、吉保が「吉」の偏諱を与えられ同時に美濃守に成ったのが、 元禄14年11月26日ですから、その御祝いであったのでしょう。御先詰を勤めた綱利の得意満面の感じが面白いですね~。
処がこの御成り屋敷は元禄15年7月12日に火災で焼失し、吉保自身は家臣薮田重守邸に避難することになります。 

元禄14年3月14日赤穂藩主・浅野長矩が殿中で刃傷に及び切腹、家臣47人が15年12月14日御仇・吉良上野介を討取るという事件がありますが、将軍の御成りはちょうどその一年ほど前の出来事ですね。

綱利公と柳沢吉保の間はいろいろな噂が絶えずありました。吉保の子を綱利が養嗣子にしようとしたことも有りました。
      ・
綱利と柳沢吉保の仲・・?  
     ・
夜中越中

そして薮田重守の子が後に細川家家臣と成ります。
     ・細川家家臣・薮田氏

 

さてオークションの文面を読んでみましたが、自信がありません。皆さまお読みになって間違いをご指摘いただければ幸いです。

                  のし内膳へ申候左之趣
                  友山へも可被相達候已上               友山:(内膳家二代)長岡忠恒
               
                 一筆申入候甚寒之
                 節
                 公方様益御機嫌能
                 ヒ成御座候昨日者
                 御病後初而松平
                 美濃守亭へ被為
                 成候之處天気茂好
                 御機嫌叓
                 還御恐悦之至奉
                 存事ニ候其節我等
                 儀 御先詰被
                 仰付 御講釈相聞

               折紙下面

                 御仕舞拝見其上
                 御念頃之以
                 上意 御手自御目録
                 頂戴之謀以隹恵々       ここがまったく自信ありません              
                 有難仕合冥加之至ニ
                 奉存事ニ候此如為可
                 相述如新ニ候 恐々謹言

                           越中
                  十二月十二日 花押

                    長岡内膳殿 (内膳家四代忠季)
                    長岡図書殿 (刑部家四代興章)
                  

 


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする