いつごろの事か判らない光尚にあてた忠利の次の様な書状がある。内容はこの文章のみである。(熊本県史料・近世編一 p433)
一筆申候 中根市左衛門事御前相済候哉南光坊へ被
相尋様子早々可被申越候為其如此候 恐々謹言
越中
十二月廿(日) 忠利 御判
肥後殿
進之候
光尚が肥後守を名乗ったのは寛永12年7月23日、この日から忠利が亡くなる同18年3月17日の間の出来事である。
「御前相済」とは一体何事なのか、御前といえば将軍家としか考えられない。
中根家については、ここでも何度か取り上げその出自について調べてきた。
細川家家臣・中根氏
細川家家臣・中根氏・・2
細川家家臣・中根氏・・3
細川家家臣・中根氏・・4
その出自については、HNぴえーるさんや HN代書屋さんに大変貴重な情報をいただき、その先祖が織田信長の弟(中根忠実)につながることが判った。
そんな家柄からすると将軍家の御前へ伺候する事も有りうるのかもしれない。それゆえ忠利の心配ぶりが理解できる。
その真実とは何か・・・・解決の資料を見つけ出すのにまた相当の時間を要しそうである。