津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■逸話 「是非櫻馬場を・・・」

2014-03-21 12:05:13 | 人物

 宝暦の改革の立役者とされる堀平太左衛門を重賢公に推挙したのは、御側御取次(後・用人)竹原玄路によるものであることはよく知られている。
「秘録御遺事草案」に次のようにある。

        霊感公(重賢)御代に相成、何卒人才を御用成れ度思召れ候、大奉行益田彌一右衛門、堀平太左衛門
        両人撰に相成、既に益田殿に可成哉と御詮議有之候節、竹原殿両度迄御袖にさがり、是非櫻馬場を御
        擧遊ばされ候様にと、思召をまげ申上られ、仰付られ候事

ここに櫻馬場とあるのは堀平太左衛門の事である。堀の屋敷が櫻馬場近くにあったことに依る。
一度は益田彌一右衛門に決まりかけていたことが伺えるが、これは執政たちの意見を入れての事であったのだろう。
主君の袖にすがるという事は、事が為さぬ時には死を意味している。まさに竹原玄路の命がけの進言であった。

のち安永三年益田弥一右衛門は、堀平太左衛門の政治に対し「上書」をもって十八ヶ条の意見を上げている。
重賢はその一ヶ条ごとに平太左衛門に回答を求め、これを弥一右衛門に呈したとされる。これをもって弥一右衛門は非を認めたとされる。

政敵ともいえるこの二人は非常に近い縁戚関係にある。平太左衛門の娘が弥一右衛門の嫡男に嫁いでおり、二人は舅同志である。

現在の桜橋(当時は存在しない)を渡るとすぐ左手(現在の県立第一高校グランド)に平太左衛門の屋敷があった。このあたり一帯を含め櫻馬場と呼ばれていたことが判る。
坪井川にそって緑地帯が設けられている。また屋敷から坪井川に向かう舟着きの跡などが残されている。
このあたりの石垣に多くの刻印が刻まれた石が使われていることで知られている。
 

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■軍陣之作法少々聞書(三・了)

2014-03-21 08:31:13 | 史料

一、具足着初之時之酌出陳之酌と同前也 但馬尾鼠尾の唱ハ無候事也 膝仕か候也様躰無相替事也
   自然武勇之人相伴之事有其時ハ是も三ツ盃也
一、具足をからひつ(唐櫃)より取出時ハ先甲を取出候 其後具足の袖を持上て袖の下よりわたかみを
   取て出也 人ニ見せる時はからひつの蓋のうらに具足を置其上ニ甲を置二人してかきて出てたゝミ
   置前を見せて左を見せさて右をミせる也 後をも所望ならハ見すへし 無其儀は三方計可見也
   右之ふた共ニおし直して見也 自然ひつたてゝ見するとも同事也 わたかみを取ひつたてゝよし 鎧を
   取出す時は先甲を取出して脇立を取出し其後筒を取出し二人して持出也 賞翫の人跡の方をかくなり
     又五領十領臺に預てつミ披露之事あり 此時は主人之右之方ニ横ニ置て懸御目也 いむけと宗(胸)
     板の間を被成候 纔様ニ出し候也
一、具足を人に被遣時も右之ことく被下候ヘハいむけと胸板の間いたゝきて吉
一、甲を主人ニ掛御目時は左の手を甲の内に入指をそへ手のうらニ居て右の手をしころニそへて向を
   御目ニかけ扨左之方を懸御目其五右をミせ申へし 是おうしろを見せよと所望あらハ可見也
   貴人も下輩もミせ様大かた同前也 是も向を御目ニかけ其後いむけ懸御目也なお口傳有
一、籠手計主人江進上之事身着之方を主人方ニなしてゆひの方を我前江なす也
一、首を見て軍の吉凶を知事頭の目の右の方開きたるハ首の味方まけと可知也 同左の方ひらきたるハ
   首の味方勝なるへし 真向の眼ハ陳長引と可知也 地眼ハ早く果て和睦と可知事也 首ハ真向地眼ハ
   何れニ而も穴を見目ハ終ニ不見及候 後人ニ可願しと云々
一、軍陳之時馬乗様之事庭ニても何所ニ而も乗出三足ふミ出せて乗出へく候 必左へ廻て可然事也
   此儀太刀打之時右之手を用ニ立ニゟて此分ミ由也 乗納なるも本の所江乗寄て又三足乗出してから
   下馬すへき事口傳
一、出陳之時主人貴人の前ニ而馬を乗出し候時之事必右方江廻りて我右之方へ乗廻也 三へんのり
    乗そめニも三足乗出乗納も三足乗出して可下馬事也 猶口傳あり

             以上

 

討取った首をみて、その軍(いくさ)の吉凶を占うと有る。全く根拠のない非科学的な話だが、これが一体どのような役にたったのだろうか。
総じて様式を論じており、実戦とは程遠いものがある。
 

 

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