宝暦の改革の立役者とされる堀平太左衛門を重賢公に推挙したのは、御側御取次(後・用人)竹原玄路によるものであることはよく知られている。
「秘録御遺事草案」に次のようにある。
霊感公(重賢)御代に相成、何卒人才を御用成れ度思召れ候、大奉行益田彌一右衛門、堀平太左衛門
両人撰に相成、既に益田殿に可成哉と御詮議有之候節、竹原殿両度迄御袖にさがり、是非櫻馬場を御
擧遊ばされ候様にと、思召をまげ申上られ、仰付られ候事
ここに櫻馬場とあるのは堀平太左衛門の事である。堀の屋敷が櫻馬場近くにあったことに依る。
一度は益田彌一右衛門に決まりかけていたことが伺えるが、これは執政たちの意見を入れての事であったのだろう。
主君の袖にすがるという事は、事が為さぬ時には死を意味している。まさに竹原玄路の命がけの進言であった。
のち安永三年益田弥一右衛門は、堀平太左衛門の政治に対し「上書」をもって十八ヶ条の意見を上げている。
重賢はその一ヶ条ごとに平太左衛門に回答を求め、これを弥一右衛門に呈したとされる。これをもって弥一右衛門は非を認めたとされる。
政敵ともいえるこの二人は非常に近い縁戚関係にある。平太左衛門の娘が弥一右衛門の嫡男に嫁いでおり、二人は舅同志である。
現在の桜橋(当時は存在しない)を渡るとすぐ左手(現在の県立第一高校グランド)に平太左衛門の屋敷があった。このあたり一帯を含め櫻馬場と呼ばれていたことが判る。
坪井川にそって緑地帯が設けられている。また屋敷から坪井川に向かう舟着きの跡などが残されている。
このあたりの石垣に多くの刻印が刻まれた石が使われていることで知られている。