長田王(をさだのおほきみ)の歌として、熊本に関するものが万葉集(3-245番、246番)に二首ある。
「筑紫に遣はさえて、水島を渡る時の歌」
245 聞くがごと まこと貴く奇しくも神さびをるか これの水島
(聞いていたとおり、まことに貴く、不思議なほど神々しい、この水島は)
246 葦北の野坂の浦ゆ船出して 水島に行かむ波立つなゆめ
(芦北の野坂の浦を船出して、水島へ行こう。波よ、決して立たないで)
「水島」は、熊本県八代市の球磨川河口近くにある小さな岩山。日本書紀によると、「景行天皇が立ち寄って食事をしたとき、水がないため、侍臣が神に祈ると、がけのほとりから清水がわき出たことから、水島と名付けられた」とされます。246の「芦北の野坂の浦」は熊本県葦北郡の不知火海に面した海岸。
サイト「万葉集」から引用
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柄にもなくなんで私がこのようなことを取り上げたのか、これにはいささかの訳がある。
「古今肥後見聞雑記」に次のような記述があった。宝暦十四年の頃、この地を納めていた細川家家老・有吉家の分家筋の有吉清助(三代・直信カ)が、葦北佐敷の野坂の浦の女島の社に和歌を納めようとした経緯である。当然のことながら上記長田王の「葦北の・・・」の歌とのかかわりがあることは自明のことである。
一、葦北郡女嶋和哥の事佐敷海邊に有之女嶋と云纔の嶋なれども天照大神の社あり松の老木見事成有り佐敷守護有吉清助直久和哥を奉納の志ありて
宝暦十四年京都町人井筒屋某江頼ミて則六月堂上の御詠歌参り候於京都取遣し紙面并御詠歌左之通
風早宰相公雄卿 ゟ九条左大臣御用安藤勘解由方江之御返翰之写
御端書之趣御丁寧之儀ニ存候 昨日は帥(そち)宮へ伺公仕連罷帰候而御請及延引候可御免候也
御書畏拝見仕候如仰雨中■々敷候 急御安躰被為成恐悦ニ奉存候然者愚詠請書之儀何にてもくりし
からす掛物ニ相成候様可書付之旨承存候 別乍不調法請書候而邊上仕候此段宜敷令申給候也
五月廿八日 公雄
安藤勘解由殿
年ふるや女嶋の松能深ミとり志川え(は欠)浦の波にひ堂して 此松天保十五辰比之風ニ吹たる由及上達取除相成候由
[年ふるや女島の松のふかみどりしづえは浦の波にひたして]
肥後國葦北郡女嶋浦和哥之事同國有吉某懇望之旨再三任被申聞以序達 台■之處依左大臣願厳命
風早宰相公雄江被為詠近所之和哥年ふるや一首令遣達候也
五月廿九日 安藤勘解由直隆
北村祖旦殿 井筒屋事也
北村祖旦ゟ有吉清助家来有働孫之允ニ當ル帋面畧之
井筒屋奉納發句左之通
色かへ春勢なや女嶋神の枩 祖旦 (色かへず勢なや女島神の松)
明和四年正月十二日再詣て
一入尓青海原や松乃色 (ひとしおに青海原や松の色)
石碑成就を賀して
石尓入神能力や徒く/\し (石に入る神の力やつく/\し)
有吉清助の事蹟も又讃えられるべきである。一人の豊かな文化人の存在が葦北の町に財産を残した。(二つの文字を判読できないのが悔しい・・・)