津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「すりの大将」という言葉

2014-04-07 16:07:22 | 徒然

 寛永八年のものと思われる閏十月廿八日付、三齋宛て(実は貴田半左衛門宛て)忠利書状に、なんとも解せない一文がある。
                                                             (熊本県史料・近世編一 p574) 

     爰元于今きりしたん御穿鑿又すりの大将御坐候而方々
    大名衆・年寄衆之内ニも数多御座候てとらへ申候此大将
    ハ松土之内鉄炮頭仕候而二千石知行取候もの扶持を
    被放牢人ニて居候ものと申候我等内なとに者一人も同類
    無御座候

この「すり」とは単純に「掏摸」とは解釈できない気がして、いろいろ調べているがはきとしない。キリシタンに関係する言葉なのか・・・?
松土とは松平土佐守すなわち土佐の山内氏を差していると思われるが、このような話を御存知寄りの方が居られましたら、ご教示いただきたい。
     

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■忠利公御自らの借金取立て

2014-04-07 10:59:40 | 人物

 藩政時代を通じて借金の話は掃いて捨てる程見受けられる。その中で余り名誉ではないが後世に名を遺したのが、沢村大学遠坂越後である。
後者については次のような文書が残されている。(熊本県史近世編一・p570)寛永八年のことと推察される。

    猶/\只今進上仕候飛脚両人之内一人ハ小倉江用之儀
    御座候而直ニ罷下候へと申付候已上
 追手申上候大つほね娘米を遠坂越後かたき書物を仕于今返
 弁不仕候由不便ニ思召候通余儀もなき儀共ニ御座候沙汰の
 限千万無申斗儀ニ御座候我等存可申与可被思召段迷惑仕候
 然とも少も不存候加様之儀御耳ニ立候迄滞候儀我等不念な
 る故ニて御座候無御存知分ニなされ候様仕度奉存候則借状
 之通當年中ニ急度取立可申候家中之きつかけニ罷成義ニ而
 無御座候惣別越後儀物毎さ様之生つき成候ものニて御座候
 と見へ申候是非もなき儀我等まて迷惑仕候以上
    十月二日                (忠利)
         貴田半左衛門殿

これは三齋の乳母(大つほね=大局)の娘が遠坂に貸した米がいつまでも返してもらえず、三齋に泣きつき、三齋はその解決を忠利に依頼したものである。
「我等も迷惑」と記しているが、偽らざる気持ちであったろう。しかし遠坂氏の無頓着ぶりには忠利もこう書かざるを得なかったことはよく理解できる。

         
 

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