津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■銀二貫

2014-04-26 16:13:08 | 熊本史談会

 私たち位の年代だと尺貫法もメートル法も両方理解している年代で、1貫目は3.75㎏であることはよく承知している。
「お前の体重は」と聞かれて16貫と答えると、それは何㎏かと問われる。すると頭の中で暗算をして56㎏と即答するのだが、16×3.75ではなく8×7.5と計算するわけだ。私の小学生時代は60㎏だった。現在はといえば言わぬが花・・・・・・

 NHKのドラマ「銀二貫」が放映されている。あまり見ていないが題の「銀二貫」には大いに興味がある。筋書きはNHKのサイト「木曜時代劇・銀二貫」を見ていただくとして、このお金は元々、火事に遭った天満宮再建の為に、寄進するために用意されたものであったとい筋立てが進行していく。

 現在の銀価格はグラム当たり約72円ほどである。二貫目7、500グラム×72円で518,000円であるが、当時はこんなに安いものではない。
「ドラマの見どころ」をみると、小判で33両ほど現在では300万円ほどだと解説している。価値の変動で何倍にもなる事があつたとも記してある。

 江戸時代のいわゆる「三貨制度」はなかなか理解が難しい。
次回の史談会ではゲスト講師を御迎えしてこの「三貨制度」についてお話を伺うが、予習の為と思い「江戸のお金の物語」などという本を読んでいるが、何とも難しくてちんぷんかんぷんである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■GW こちらは如何・・・

2014-04-26 15:20:54 | 熊本
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■寛永十五年・・口蹄疫?

2014-04-26 11:01:44 | 歴史

 4月13日熊本の南部・多良木町で鶏インフルエンザが発生したことが判明すると、熊本県は迅速な反応をして113,000羽の鶏を殺処分し16日には防疫措置完了するという手際の良さを見せた。その後広がりを見せておらずどうやら収束に向かっているのだろう。
かってはお隣宮崎県でも鶏インフルエンザや、牛の口蹄疫等で知事に当選直後の東国原氏が奔走する姿が全国メディアで注目されたことがあった。
牛の殺処分は276,000頭、鶏は41万羽に及んだと言われ宮崎東部の五ケ町村では牛の姿が消えてしまったという。
この様な大きな教訓をベースに今回の熊本における鶏インフルエンザの抑え込みは大きな成果であったと云える。

大日本近世史・細川家史料二十四を見ると、寛永十五年肥前・筑後で牛の大量死亡がさかんに伝えられている。これは豊前にも広がり米の作付に支障がでていると記されている。熊本も国境において被害がでている。
その数がどのくらいのものであったのかは判らないが、その衝撃は現代と変らないものであったようだ。
まさに歴史は繰り返されている。しぶとく菌は息長られているのだろう。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■一休長文字「諸悪莫作衆善奉行」

2014-04-26 08:13:02 | 史料

熊本県史料・近世編二の誌面をなんとなく眺めていたら、「一休長文字」が目に飛び込んできた。
この当該書状は寛永八年二月十五日付の三齋から忠利に宛てた書状(p41)で、正月廿日城中でもあろうか「御数寄初 将軍様へ御茶被進候由目出度儀候事」とし、次にこのように記している。
          廿一日薩摩殿・宮内殿・美作殿・長門殿・越前殿其方へ 御茶被下 御機嫌残所無之由是又目出度儀ニ候
          御かさり書立被越候内圓座之御茶入ハ如何様ニ披見候哉ちと平キ様ニ可被存かと存候 昔ハ日本ニて四ツ
          の茶入ニて候つる 不入儀なから様子承度候 一休長文字と被書付候ハ諸祖菩提之事候哉長文字之天下一
          ニて候披見候事浦山敷存候事

私は以前一休の長文字を書いた。童話で語られる「し」という長文字である。
上の文章を読みながらハッと思い至ったのが「一休長文字と被書付候ハ諸祖菩提之事候哉」という記述である。 
あわてて某展覧会の図録を引っ張り出してみる。一休宗純の「七仏通戒偈」である。この「諸悪莫作衆善奉行」という一休の書の存在はその書の雄渾な様が頭にあって忘れることは無いのだが、これが一休の長文字であった。この書を収める内箱の表に三齋の筆によりそう書かれているという。
そして私はこの書についても触れていた。 

                                                                                    

図録の解説をちゃんと読んでいればこんな失態をすることは無かったのだが、しかし上記書状を見つけ出して解決できたというのもまた価値があるではないかと思うのである。

追記:のちに見付けた上記書状に対する忠利の返書(p23) 14/04/26 14;24記す

          二月十五日之御書三月朔日致頂戴候
               (中略)
          一休長文字如御意諸祖菩提ニ而御座候 是ハ我等共目にも事之外見事ニ見申候 扨ハ天下一ニて御座候哉
          表具もむかしのニて御座候哉軸已下ふかく見へ申候 中ハ白地乃金襴ニ上のかたニ候大なるかのしゝ三ツ御
          座候 下の中ハ上の金襴ニかはり地ハしろく御座候へとももんかはり申候
               (中略)
             (寛永八年)三月五日                      忠興
                         貴田半左衛門殿 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする