上妻文庫250に「御天守の屋格に登候乙八事件」という記事がある。御家老中窺扣から引用されているものだが、一介の町人が御天守の屋根に上ったというのだから、これはまさしく事件である。御天守の入り口の御門番に限らず、城内各所の御門番も随分とお叱りを受けたことであろう。
御府内の御門や常夜灯が設けられていた場所などについて触れたことがある。城内の御門番の配置などを記した物を見ると、手薄と思える場所が見えてくる。乙八成る人物がどういうルートで事を為したのかははっきりしないが、「出来た」という結果がすべてを物語っている。
表記文書をみると「所々御番衆」という項が立てられ349名の人物の名前が記されている。門番や辻番などをピックアップしてみた。
御本丸東御門番・3人、御本丸数寄屋下御門番・6人、御本丸闇(くらがり)御門番・5人、御本丸四つ辻御門・3人、御本丸御裏御門番・3人、竹御丸御門番・4人、御天守には「御天守手傳」として10人の名前がある。西大手御門番・6人、南大手御門番・4人、北大手御門番・3人、御奉行所口御門番・4人、門番と云う訳ではないが奉行所の入り口には「刀懸ノ番」が6人いたり、太鼓御番(時の太鼓カ)6人とか御銀番6人とか本籠番(牢番カ)6人とかも見える。松助殿(光尚弟・尚房)御門番・4人、御花畑面御門番・2人、同所裏御門番・6人、同所黒門御番・4人、そして邸内には御小姓部屋の口ノ番、奥御納戸番、表御納戸番、御楽屋口ノ番などが見える。周辺にはさいゑん等も有り同裏方御門番・3人がおり、御馬場脇辻番がいる。小堀長左衛門の屋敷が花畑邸の真向かいにありここには同門脇御門番3人、用人林外記の屋敷には林外記脇御門番5人が詰めて居る。広く花畑邸周辺を含め監視をしていたのだろう。
城内に入ると尾藤長次郎脇御門番・2人、佐渡守脇御門番・3人、中村左馬進脇御門番・3人(これは後に住之江門と呼ばれる)、監物脇御門番・4人、佐々小左衛門脇御門番・3人、澤村大学脇御門番・4人、伊豆屋敷番・4人、棒庵坂御門番・4人、その他妙解寺御番・4人、本妙寺口御門番・1人、高麗門ノ番等が見えるが、新一丁目御門や三丁目御門などはうかがえない。
このリストをみていると、御花畑に「鹿飼」が一人おり、妙解寺には「鶴飼」一人の名前が見える。この時期(正保二年)鹿や鶴がかわれていたことが判る。
御預かり人・伊藤権兵衛に28人が付、稲葉内記(春日局息)には27人が門番を含め配置されている。徳川忠長の家臣であった二人は、忠長の罪に連座して熊本に預けられたが終生許されることは無かった。伊藤権兵衛は30数年、稲葉内記は約40年間拘留され、その間多くの人達が番人として詰めた。
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