■ 希首座の祠
おくかたの事こほ様ゟ御申つけ之ことくにまかない以下も申付候已上
(寛永十一年)
十二月一日御印
奉行中
この絵図の着色した部分が「おくかた=奥方」である。その下が藩主の私的部分、左がいわゆる表と呼ばれる公的部分、おくかたの右手は女中たちの住空間である。
寛永十一年というと忠利の時代で、江戸屋敷は「刑部卿」成る人物や、保壽院が細川家に入輿の時に着いてきた岩間六兵衛の妻・かいつ(海津)などが取り仕切っていたものと思われる。一方熊本の花畑邸はどうかと云うとなかなか資料に出くわさないでいたが、貴重な上記資料に出会った。(熊本県史料・近世編二 p466)
「こほ」とは忠利の四つ年上の姉であり家老松井興長室である。天正十年の生まれ(綿考輯録)であるから、この時期53歳になっている。
この時期は花畑邸が整備され、忠利が城内での生活が不便であるとして引っ越した時期と重なる。
光尚の弟妹(三男二女)は、全て側室の子であり寛永十一年以降の生まれである。どうやらすべてが異腹と思われ熊本で生まれたのではないか。
側室の教育も含め、こほ様の目が光っていたという事であろう。考えて見ると最適の人物当用である。