津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

松寿庵先生 第96講

2014-04-25 11:52:47 | 歴史

                               ■ 細川内膳家と希首座の祠

                               ■ 希首座の祠

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■御恵贈御礼「大日本近世史料 細川家史料・二十四」

2014-04-25 09:10:19 | 書籍・読書

 誠に思いがけないことで、この巻の編纂を担当された東京大学史料編纂所の山口和夫准教授林 晃光助教両先生ご連名にてご恵贈いただいた。
なんとも恐れ入ったる次第でたいへん恐縮している。ただただ有り難く拝受させていただくことにした。
両先生の御苦労に敬意と感謝を申し上げる。 

待望の二十四巻は寛永十五年の御公儀案文である。七月廿日から十一月廿八日までのものだが、天草島原の乱後のようやく落ち着いた様子の中にも、忠利の討死をした人を想う気持ちなどが文面に表れている。烏丸光廣・光賢父子の死もこの時期である。それぞれの文面から時代の息使いが聞こえる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■おくかたの事

2014-04-25 07:18:52 | 人物

 
                 おくかたの事こほ様ゟ御申つけ之ことくにまかない以下も申付候已上
                    (寛永十一年)
                       十二月一日御印
                                                奉行中

この絵図の着色した部分が「おくかた=奥方」である。その下が藩主の私的部分、左がいわゆる表と呼ばれる公的部分、おくかたの右手は女中たちの住空間である。

寛永十一年というと忠利の時代で、江戸屋敷は「刑部卿」成る人物や、保壽院が細川家に入輿の時に着いてきた岩間六兵衛の妻・かいつ(海津)などが取り仕切っていたものと思われる。一方熊本の花畑邸はどうかと云うとなかなか資料に出くわさないでいたが、貴重な上記資料に出会った。(熊本県史料・近世編二 p466)
こほ」とは忠利の四つ年上の姉であり家老松井興長室である。天正十年の生まれ(綿考輯録)であるから、この時期53歳になっている。
この時期は花畑邸が整備され、忠利が城内での生活が不便であるとして引っ越した時期と重なる。
光尚の弟妹(三男二女)は、全て側室の子であり寛永十一年以降の生まれである。どうやらすべてが異腹と思われ熊本で生まれたのではないか。

側室の教育も含め、こほ様の目が光っていたという事であろう。考えて見ると最適の人物当用である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする