最近「熊本県史料・近世編二 p403」で忠利が三家老に宛てた書状の中に、次のような記述を見付けた。
私にとっては新発見の記事である。
庄林淡路相果候由不便成儀候 跡職知行等無相違隼人ニ遣候間可得其意候
いまたせかれ之事ニ候間縁者・親類之内萬事肝を煎申候而遣候様ニ申付可
然候 左様之者無之候ハゝ皆として申付可遣候 隼人所へも跡職無相違申付
段遣候事
(寛永十弐年)二月廿九日 忠利
ここに名前が出ている庄林淡路とは以前から御紹介してきた次の記事の隼人の事と考えられる。
寛永十年三月十九日付 榊原飛騨守書状(忠利様・人々御中)
庄林隼人・出田宮内両人御かゝへ被成候由、可然人之様ニ承及候
(綿考輯録・巻三十五)
この隼人に対しては寛永十年の忠利の宛行状(六千三百石)が残されている。
上記書状に於いて忠利は、淡路(隼人佐)が十二年に亡くなり、跡職は同名隼人に相続せしめたがまだ若い(いまたせかれ之事)ので、縁者・親類で肝煎するようにと記している。
そして寛永十八年の光貞(光尚)による宛行状(六千三百石)が残されており、父親の禄をそのまま相続せしめていることが判る。
いまだ三齋が存世の時代であり、このような措置が取られたのであろう。
一方細川家家臣・庄林曾太郎家の先祖附けによると、隼人には二人の(男女一人づつ)子が在ったが、男子は亡くなり、女子に益田家から養子をとり庄林家が明治に至っているが、跡職を相続した二代目の隼人佐には全く触れられていない。書付が焼亡したとあるから、記憶違いがこのような齟齬を生んだのかもしれない。
寛永十二年に跡職を相続した隼人佐(曾太郎家先祖附には登場しない)は先にご紹介した「庄林家由来」によると養子であり、細川三齋の在る八代にいたが、三齋の死後離国している。
三齋の死後八代衆の去就については、離国、本藩への帰参、細川行孝(宇土支藩初代藩主)に着こうとするものなど色々の動きがあり、本藩は丹羽亀之丞をもって詳細な報告を為さしめている。これにもとずき家老の松井佐渡は、光尚の用人・林外記にあてて次のような書状を送っている。
一、庄林隼人・新美八左衛門御暇被遣候通皆共かたへ被仰下候
閏五月廿三日之御書六月三日ニ此地参着致頂戴翌日四日ニ
則申渡候 庄林儀ハ志水新丞所へ召寄西郡要人・奥田権左
衛門私共より之使二仕被仰下候通右両人を以申渡候
八左衛門儀ハ(澤村)大学所へ召寄是も要人・権左衛門私
共使二仕申渡候 屋敷をあけ申候儀ハ翌日あけ申庄林ハ新
丞所迄のき申候 八左衛門儀ハ本妙寺之寺内ニ旦那寺御座
候ニ付而是迄のき申候 四五日■迄仕両人共二爰元罷出川
尻より舟ニ而のき申候 庄林儀ハ筑後立花領内へ参申由ニ
御座候 矢島石見せかれ主水庄林淡路時より懇二申通ニ付
頼参居申候由申候 新美儀ハ女子ハ長崎へ遣シ其身ハ江戸
へ罷越子共なと御存之方へ預ケ置大坂京二可罷在と申由ニ
御座候 此両人儀被仰下候御書之御請何も一所二可申上候
へ共帯刀かたより之書状差上候ニ付而俄ニ私かたより御飛
脚差上候間先私一人にて右ノ様躰申上候
(次項 略)
(正保三年)六月十九日 松井佐渡守
林 外記殿
以降の子孫に着いては「庄林家由来」に委しいが、庄林曾太郎家の先祖附においては男子・淡路が早世し女子のみとなったので家禄を返上し後益田家から養子をむかえたとあり、両家の交流が全くなかったことが伺える。
昭和54年12月号の「石人」に、山田康弘氏の論考「荘林隼人佐について」があるが、これはまだ「庄林家由来」の存在を御存知なく、曾太郎家の先祖附けをもとにしておられるが、菊陽町に遺されているという隼人佐の荼毘塚などを取り上げ、肥後国誌の記述の中にある齟齬などを指摘している。
禅定寺にある隼人の墓碑の没年は寛永八年とあり、細川家の記録とも大いなる齟齬がありこれらの事をどう解すべきか頭を悩ませてしまう。
曾太郎家の侍帳をまとめるにあたり、どう整理しようかと思っている。