年代の分らぬ忠利から弟・立孝に宛てた書状がある。立孝が中務大輔を名乗るのは元服と同時の、寛永十六年九月二十日である。
忠利は同十八年の三月十七日に亡くなっているから、約一年六か月ほどの間のものである。 (熊本県史料・近世編二 p79)
一筆申入候
一、 三齋様頃いよ/\御物忌被成少は御ほうきゃくの様ニ存候
就其於其元貴殿ニ御申候ことく我等存寄通書付を以申上扨其
書付御合点申候ハ其上ニて八代向之儀事ニより此方ゟ差圖
を可仕と存先書付差上候而長岡監物・田中左兵衛を以申上候
處一圓御合点不参結句御腹立被遊之由候間此上ハとかう不
被申上候間可有其御心得候 則我等申上候一書うつし進之候
条堀加ゝ殿并斎藤佐なと對面之砌ハ能様ニ御心得候而御
申可有候 㝡前加賀殿八代向之儀万事我等ニさし引候へと被
仰候へ共右之仕合故もはやとかう不被申候間其御心得候事
一、 三齋様御手前不被為成候由ニて長岡監物・沢村大学を被
為召其段被 仰聞則長岡河内守・深尾長兵衛方ゟ覚書を仕差
越候 就其我等方ゟ御請申上候キ 其御請之書付是又写進候
間可有御覧候 此度我等罷上儀ニ付上方ニて借銀のためニ人
を上せ候へ共于今相調不申調重畳苦〃敷存候 山の井の御茶
入も我等ニ被差渡候ハゝ其元へ持参申貴殿とも/\肝を煎可
申と存候事
一、御暇乞として明日八代へ参候若替儀も候ハゝ重而可申入候
恐惶謹言
正月廿九日 忠利
中務太(ママ)輔殿
御宿所
猶/\我等二月中旬ニ爰元可罷立覚悟ニて候間追付以面上
可申述候已上
この書状が発せられた時期忠利は熊本に在る。忠利は十七年六月十二日に帰国し死に至るまでを隈本に過ごしている。
三齋は七月十七日に京都から八代へと戻っている。即ちこの書状は忠利の死の直前(十八年)の書状であることが判る。
この時期三齋は老耄が激しく、これ等の事は幕府にも伝わっていることが残されている書状からも類推できる。
忠利の申入れはどのようなことであったのか知る由もないが、三齋はご機嫌斜めである。借銀についてなのかもしれない。
過ぎる正月十八日には忠利は八代に三齋を尋ねている。その帰途中に右足がしびれ、言語不自由に成っている。(熊本藩年表稿p59)
そんな中にも忠利のこのような苦労が続いている。大きな負担が忠利をむしばんでいた。約一ト月半後幽冥を異とすることに成る。
ここで面白いのは、茶入れ・山の井肩衝が忠利の手に渡されていることである。
この山の井肩衝は、薄田泣菫の松井康之を主人公にした「小壺狩り」という小説の題材となった、旧松井家所蔵の松井肩衝のことである。
後には宇土細川家に渡る事に成る。
綿考輯録に以下の如く紹介されている。
(前略)三齋君より立孝主ニ御譲被成、丹後殿御伝り候哉、寛文十二年御勝手被
差支候由ニ而、望の方へ被遣度、代金五千両之由、乍然もし綱利君ニ可被召上
哉とて、先ツ御家家老迄御内談之趣有之候、此節綱利訓御在府故江戸ニ伺ニ成
候処、山の井の御茶入ハ他家ニ被遣御道具ニて無之と被思召候間被留置、宇土
ニハ右茶入之代銀四百貫目追々ニ可被遣候、左候ヘハ茶入何方へも参り不申
丹後殿御勝手の足りニも成可申との思召、江戸より被仰下候(以下略)