津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■目丸山

2014-04-24 11:22:09 | 熊本

                                         

                                                                            かたくりを訪ぬる 里の棒踊り   津々
 

 今日の熊本日日新聞は、目丸山にカタクリの花が見ごろになっていることを報じている。登山客によって踏まれて減少していると書いているが、この記事をみて出かける人も有ろうし、メディアの報道も痛しかゆしではある。私は30年ほども前に成ろうか、出かけたものの少々遅くて見ることは叶わなかった。
このころはそう人出もないように地区の人達は仰っていた。

この目丸の地は阿蘇家ゆかりの地である。秀吉の手に寄り十三歳で誅伐された阿蘇惟光とその弟・惟善は、一時期ここ目丸に逃げ込みこの地で過ごしたとされる。地域にのこる棒踊りは惟光たちが里人に教えた棒術の名残だといわれる。惟善は命をたすけられ、加藤清正に寄り子孫が阿蘇宮の宮司家として存続されるようになると、目丸の人々は大変歓び清正を崇めたという。

目丸に旅芝居などが来ると、演目に拘らず清正を登場させ上手から下手へ歩かせると、観衆はヤンヤの声をあげたという。
そんなことからこの地区では、何事にも顔を出す人の事を「目丸のせいしょこさん(清正公様)」と呼ぶのだという。良い話ではないか。

目丸地区から目丸山までは相当の距離があるが、カタクリの花を見るために登山すると云う人は結構いるらしい。このGWが一番見頃と云うからいつもは静かなこの地区も、さぞかし賑わうのだろう。
わずかの期間で優雅な姿を終えるカタクリは、惟光の生涯を思わせるようでもある。 


 

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■御こほとの御間なをり申候て・・・・

2014-04-24 09:56:56 | 人物

 あら川なる人物に宛てた忠利の書状である。(熊本県史料・近世編二 p120)

                     此春ハ御祝儀として御文ことにたる代三百疋給候 いく久敷と一しほいはひ入申候
                     ここもといよいよやかて有付可申候まゝこころやすかるへく候 次別紙の御文見申候
                     江戸やしき火事之事われわれしやはせ十分にて御入候まゝ身のましはひにて候まゝ
                     満足申候事候 六・女共其外やしき中下々迄無事ニ候まゝ可安心候 御こほとの御間
                     なをり申候て一入われ/\まんそく申候 江戸へ下候じぶんいまたしれ不申候かしく
                         (寛永十年)正月廿七日                   (忠利)
                                      あら川殿
                                          御返事 

 大変親しい間柄のように伺えるし、こほ(忠興二女・古保=松井興長室)と少々仲が悪かったことも伺える。松井家周辺の人かとも思えるが、有付(結婚)が間近のようでもあり若い人のようでもある。さてこのあら川成る人物がはたして誰なのか、謎解きは闇の中である。

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■玄蕃殿祝言振舞い不参

2014-04-24 07:26:27 | 史料

 寛永三年續少助宛忠利書状 (熊本県史料・近世編二 p9)では、忠利の従兄弟である細川玄蕃頭興昌の祝言の振舞に、不参とすることを三齋に伝えている。その理由について皆様はどう感じられるだろうか。

     正月七日之御書頂戴仕候九市所へ御書是又相届候 仍玄蕃殿へ祝言振舞當月廿四日ニ相究
     御年寄衆ハ不残御出候 加藤出羽も被参候 此刻拙者玄蕃殿江不参候てハ肝煎無御座候て何
     とも罷成間敷と玄番(ママ)殿被申候 我等ハ御下著之時分候間御迎にも罷出候ハて不叶よし申
     付而為御断以飛脚被申上候 爰元相易儀も無御座候 此旨宜有披露候 恐々謹言
           正月十六日                       (忠利)
                 續少助殿

玄蕃頭興昌は三齋の弟・興元の嫡男である。興元は元和五年三月に亡くなっており、従兄弟・忠利は頼るべき人物であったことは間違いない。
室の父親・加藤貞泰をはじめ御年寄衆も残らず参加される席に、父・三齋が江戸へ下って来るその出迎えの為に不参加とするというのである。
この書状は飛脚をもって届けられるようだが、八日程の余裕しかない。三齋は江戸へ下る途中であろう。どこ迄達しているのか判らないが、飛脚を走らせ三齋に伝え、三齋から「出迎え無用、振舞いに出席するように」という返事を期待しているのではないか。
しかし日にちが迫っており私の下手な推理が成り立つのかどうか・・・・・出席した証に成るような文書は存在しないかしら・・・ 

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