今日の史談会の例会後、又DrTとN青年と三人で昼食後、宇土市松山にある寺尾勝信のお墓を訪ねる。以前は大変荒れ果てていたものを手入れをされ、同地のI家が毎月の参詣や管理をされている。このI家は大変有名な大名の分家筋に当たられる。寺尾家との係わりを今日お訪ねしてお聞きしたのだが、戦国期にさかのぼる話に驚いたことであった。
その後宇土市網田へ向い長福寺跡を目指す。網田小学校の前を進み細い道を右折すると新道へ出た。これを横断して細い山道に入ったのだが2mほどの狭い道でおまけに曲がりくねってとてもこの先に目的地があるとは思えず引返す。
周辺をうろうろするがやはり先程の道がそうらしい。草刈の作業をされるらしい人を見付けてお聞きすると、やはり先程の道で間違いないらしい。
また細い道を恐る恐る登ったのだが、道は狭いうえに蛇行しているし、落ち葉が雨水を含んで道に重なっており怖いことこの上もない。
やっとの思いで行き着くとそこは五輪の搭が夥しく並んだ広い空間が広がっていた。鎌倉末期あたりの様式のものだとされるが、このお寺の詳しいことは全く分かっていない。現在は地元の方々により現代的な御堂が立てられていて、お祭も開かれるらしい。またと来ることは多分ないだろうと、帰りもどきどきひやひやしながら安全運転で下る。その後この地区にある阿蘇氏の墓地があるというのを捜すがこれにひと苦労、雨の中人通りも全くなく聞くに聞けず時間も6時を廻り、またの機会にとして帰路に着く。お二人をそれぞれ送って7:30帰宅。くたくたになってしまった。
しかしながら、午前中の史談会から都合8時間ばかり、有意義な時間を過ごした。
熊本縣史料・近世編第二 p181に、寛永十六年霜月廿四日付の四奉行宛て忠利書状(抜粋)に次のようにある。
一、花畠前之橋出来 百間馬屋之上角之矢倉大方出来 古城両所の橋の作事取懸候由得其其(ママ)意候事
花畠前之橋とは下馬橋であり、百間馬屋之上角之矢倉とは橋(下馬橋)向こうにある馬具櫓の事であろう。
http://www.city.kumamoto.jp/nishi/html/shiseidayori/07/05/last/index.html
古城両所の橋とは、現在の熊本第一高校入口の橋と、古城の中に切り込まれていた堀(現在は埋め立てられてない)に架けられていた橋の事と思われる。
明治期熊本医学校当時の橋
古城の二つの橋は、この地域には重臣の家が並びその出入りにも重要であるが、新町・塩屋町から古城を抜け二の丸に至る重要な要路であるだけに、何らかの通行手段はとられたのだろう。
寛永十六年天草島原の乱がおわってまだ二年にもならない頃の大工事だが、まだまだ城を固めようという意識が在ったのかもしれない。