津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■草枕讃歌(一)

2014-04-21 16:53:53 | 人物

 肥後金春流中村家の当主・中村勝氏は氏のブログ「肥後金春流中村家」において「草枕と道成寺」 「能と草枕考」 を発表されている。
夏目漱石の「草枕」については、多くの研究者の成果が伺えるが、漱石の能に対する深い見識と想いがこの作品を能仕立てとして構成されていることを喝破された。このことは漱石研究の上では大なる衝撃ではなかろうか。
氏の想いは駈け廻り昨年「群読能劇・草枕讃歌」を発表された。ちいさなギャラリーでの発表会であったが、今年は劇場での公演を目論んでおられ、ゆくゆくは東京上演と云う大きな目標を持っておられる。漱石没後100年が2016年、生誕150年が2017年であり時まさに至れりの感がある。
氏が寄せられた一文を御紹介する。

    

群読能劇 「草枕讃歌」

漱石年表によると明治二十一年九月二一日より東京帝国大学大学院において神田乃武に指導を受けたとある。神田盾夫先生のお話によると乃武は幕府の「触れ流し」松井家の次男で神田孝平家へ養子に入られたとのことであった。先生は松井家を懐かしみ「小面」の制作を筆者にご依頼になり長く御殿場の居間の壁に掛けられていた。乃武が漱石に英語を教えた期間や成績は不明であるが、明治二十二年、漱石は同級の正岡子規と意気投合したと云われる。漱石全集の明治二十三年に 「白雲や山また山を這いめぐり」という俳句が収録されているが、この作品の意味合いは謡曲を嗜んで居ないと判らない。 子規との交友により生まれた俳句であると 大凡断定して置きたい。
 子規の故郷松山の旧藩主は久松家であり、当時、熊本と並んで能楽の盛んな土地柄で、子規門下の高浜虚子、川東碧梧堂は玄人はだしの謡手であり、師の宝生新のツレとして舞台を勤めるほどであった。
件の「白雲や」は大曲「山姥」の「鬼女が有様見るや見るやと峰にかけり谷にひびきて・・・山また山に山めぐり・・」から採られている。漱石が若年の頃から 多くの謡本を座右にしていたことは疑いない。
 扨、熊本を題材にした名作「草枕」である。漱石が熊本時代五高の同僚から謡を習い始めたと云うことは割に知られているし、「永日小品―元日」には木曜会に集う門下生の前で謡を披露する自画像を描き、大作「行人」には侮るべからざる漱石の能についての深い造詣が示されている。
 伝説のピアニスト グレン・グールドやアニメの宮崎駿に「草枕」がこよなく愛されていると聞くことがあるが、「草枕」が「能そのもの」であるとするコメントは 漱石生誕一五〇年、没後一〇〇年を控える今日まで寡聞にして耳にしたことがない。
「草枕」の 第一章の中程には、「しばらくこの旅中に起きる出来事と、旅中に出遭う人間を能の仕組みと能役者の所作に見立てたらどうだろう・・・」と漱石自身が宣言しているのにである。 数十年ぶりに 冒頭の「山道を登りながら・・・」を再読して最初に直感したのは、「これは  ワキだ !」と云うことであった。能は多くの場合「次第」と云う「囃子と謡」にのって先ずワキが舞台に登場し、名乗り、道行き、着セリフと進行する。
「草枕」に於ける著者の分身である画工をワキと比定すれば、シテが那古井の那美さんであることに誰しも異論はないだろう。以下、物語の進行に沿って 茶屋の婆さん、馬子の源兵衛、那古井の小女などをワキツレ、床屋を狂言のシテ、那古井の隠居、本家の兄、従弟の久一を那美さんの身内としてシテツレ、海観寺の和尚を狂言アド、小僧了念を小アドなど割り振って行けばよいのである。
また、「草枕」の仕組みは十三の章(場)から構成されているが、第一章から第七章までを第一幕、第八章から一三章までを第二幕と分けることが出来る。前半の主題が画工と那美のロマンチックな出会いであり、後半のそれは 日露戦争などを背景にした近代文明への警告である。今日的に言えば、漱石が原発を語るといったところである。
又能の視点からみれば、前半は能「求塚」、後半は能「道成寺」を下敷にして物語られている。劇作法の公式に従い、起(第一章~第四章)承(第五~第七)、転(第八~第一〇)、結(第十一~第十三)と仕分けることもできよう。更にこの起承転結には夫々序破急が仕組まれているのである。
 筆者は漱石が英文学の研究に当たり、シェークスピア他の劇作方式を学び、日本古典劇の能楽にも同じ方式を探ったものと想定している。そしてこの方式は愛弟子である同じく英文学者の野上豊一郎(作家弥生子氏の夫君)によって引き継がれ大成されたと考えている。野上は二百五十番に上る能を分析整理し、昭和十年中央公論社から「能楽全集全六巻」として上梓している。
 筆者が「草枕」に適用した方式は野上豊一郎のこの公式にしたがったものである。漱石と豊一郎が能の劇作法を語り合っている場面が想像される。
漱石こそ現代にいたる近代能楽研究の先駆者であったろう。
二,三年前、渡辺勝夫氏の話から、郷土玉名の先輩木下順二氏の群読劇「子午線の祀り」の映像を探して、初台の新国立劇場のビデオ室に籠ったことがある。源平物語を素材とする能を朗読劇に仕立てたもので、優に四時間を超える大作であった。
この折、初台から徒歩で参宮橋の服部隆一氏を見舞ったが、面会は叶わず奥様と一時間ほど 近くの茶店でお話を頂いた。
筆者は群読と云うジャンルが特に学校教育で用いられていることを知り、能の仕組みと能役者の所作を再構築し、漱石の言葉とリズムは其のままに残して「草枕」を「群読能劇―草枕讃歌」として再構成したのである。
平成二五年十二月七,八日の両日 成功裏に 熊本市河原町で実験的公演を行い、「草枕」に新しい命を与えることが出来た。八日には東京から同期の片岡武彦・京子氏が来会され、「草枕変奏曲―夏目漱石とグレン・グールド」と「英訳草枕―The Three Cornered World」を持参して頂いた。二十六年秋には400席ほどの森都心ホールで公演を継続し、更に広く、又 時代を超えて「群読能劇―草枕」が受け継がれることを念願して已まないところである。

                       平成26年4月17日

 

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■芸道の栞

2014-04-21 14:50:03 | 熊本

 肥後金春流中村家当主・中村勝氏が作られた芸道の栞である。氏は御能を含め芸道全般の行く末に大いなる危機感を持っておられる。
芸道の先達たちの金言にその思いを託されて「芸能秘伝」なる十八条の栞を作られた。禅曲・世阿弥・禅鳳・(宮本)武蔵等々の言葉である。
その熱い思いを次のように託された。

2014.4.20.
「芸道の栞」 発刊」にあたって
「初心忘るべからず」他、で知られる世阿弥は14世紀から15世紀に日本の古典演劇である能楽の大成者と見做されている。
室町幕府3代足利義満に後援され、幽美な演技者、「高砂」・「八島」・葵上」など名曲の作者、更には「花伝」他の芸論の著者としてしられ、多くの格言を今日に伝えている。
15世紀に活躍した 世阿弥の女婿である金春禅竹も 演者、作者、芸論著者を兼ねていた。作品としては「玉鬘」・「定家」などを残し、芸論としては仏教哲理を援用した「六輪一露」他を残した。
16世紀前後に活躍した金春禅鳳は禅竹の孫で、演者でありながら「嵐山」・「生田敦盛」等を作曲し、また「毛端私珍抄」他の芸論を著している。
17世紀前後に秀吉、家康に愛された金春禅曲は当時第一の演者であったが、秀吉の事績を扱った「明智打ち」・「柴田退治」など残しているものの、純粋の能は作曲していない。一方「秀吉公重き御意」といわれる一子相伝の芸論「秘伝書」を小姓中村勝三郎に与え 能の演じ方、演者の心構え等を伝えた。
中村勝三郎は やがて肥後に下り、加藤清正、細川忠利に仕えたため、禅曲の芸論は今日まで広く世に伝えられる事が無かった。
17世紀初頭の宮本武蔵も晩年肥後に下り、「五輪書」を著したと云われる。「地水火風空」の「風の巻」に武道と能に共通の芸論を記している。
今般 18条にまとめた世阿弥の格言と金春系芸論、五輪書が多くの人々の伴侶となり 芸道に志す人々に寄与する事を念願して已まない。

なお十八条の内容については後日改めてご紹介する。

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■健康第一を旨として

2014-04-21 14:03:15 | 徒然

 一昨日は史談会で二時間ばかりお話をした後、宇土方面に出かけて史跡散策をして都合八時間ばかりの時間を費やした。昨日も午後から講演会に出掛けるなどしたため、疲労困憊で昨晩は九時過ぎにはベッドに入ってなんと十時間の睡眠と相成った。それでも体がだるく、今朝十時過ぎには昼寝ならぬ朝寝を一時間するような有様である。我が家で血圧の測定をするようになってから、上がり下がりに一喜一憂するようになってからこんな具合である。
4月5日だったと記憶するが、血圧の「健康に新異常なし基準」というものが、高値147-88・低値94-51と発表された。
当然のことながら収まり切れていない。日ごろからご厚誼を頂いている山梨のDr A先生から御心配をいただき、日本高血圧学会の見解http://www.jpnsh.jp/files/cms/351_1.pdf をお教えいただいた。御心配をいただき只々感謝であるが、そろそろ覚悟を決めて本格的治療に入らずばなるまいと思い始めた。まだまだやりたいことがあって、元気でいたいという思いがつのっている。

 

 

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■忍之衆と味噌奉行

2014-04-21 13:57:14 | 人物

細川藩の一番古い侍帳「妙解院忠利公御代於豊前小倉 御侍衆并軽輩末々共ニ」には、「忍之者」として7名の人達の名前が記されている。
その筆頭に名前が見えるのが、吉田助右衛門成る人物で十五石五人扶持を拝領している。
忠利はどういう思いがあったのか、寛永十年忍之衆の増員を言いだしている。

       ■      覚
         一、しのびの者今十五人程度抱度由申候何そ役可在之候哉
              寛永拾年九月十日
       
       ■ 一、十五人しのひ之者抱たし候と助右衛門尉ニ可申候 切米拾石ニ三人扶持にて可然候以上 御印
         一、なにもしのひ之者何にても助右衛門尉相談候而召遣可申候以上 御印

まるで天草島原の乱の勃発を予期するような措置であるが、天草島原の乱ではその働きはあまり芳しいものではなかったようである。

しかし息・光尚公の時代になっても忍之衆は存在し、27人もいたことが「正保五年御扶持方御切米帳」によって確認できる。
この二つの史料の両方に名前が残っている人物は唯一、吉田助右衛門と云う人物である。両方とも筆頭に名前がある所を見ると「頭」でもあったのだろう。
そして豊前においても熊本においても十五石五人扶持を拝領している。
はたしてこの「忍之者」たちがいつ頃まで存在したのか、その後の資料を見いだせないでいる。

少々遡る寛永五年六月廿六日「日帳」に、この吉田助右衛門とその子息に関する消息を見ることが出来る。 

      ○ 消息:寛永五年六月廿六日「日帳」
             吉田助右衛門尉子、太郎介(ママ)・弟十介弐人共ニ、昨日助右衛門 御前二而、子ハ無之哉と被成御尋候間、
             これ/\御座候由申上候処二、急度御礼申させ可申候、かちの御小性二めしつかハれ可申候、くミはいつれ
             へ成共、助右衛門尉希望次第ニ入可申旨にて、今日御礼申上候、御礼取次ハ式ア少輔殿(松井興長)也
      ○ 吉田太郎助  切米人数   十石三人 (於豊前小倉御侍帳)

吉田助右衛門成る人物は、「於豊前小倉御侍帳」では二人の名前が存在する。一人は 
      ○ 吉田助右衛門  切米人数 五石弐人 味噌奉行 (於豊前小倉御侍帳)とある。
寛永十年の増員の際の資料に「何そ役在之候哉」と書きこまれているが、兼帯ということも考えられそうだが、忍者と味噌奉行を兼帯など有りうるだろうか。
尤も忍之者の方は十五石五人扶持、味噌奉行の方は五石弐人(扶持)とあるから、同名異人であろうが・・・・ 

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