肥後金春流中村家の当主・中村勝氏は氏のブログ「肥後金春流中村家」において「草枕と道成寺」 「能と草枕考」 を発表されている。
夏目漱石の「草枕」については、多くの研究者の成果が伺えるが、漱石の能に対する深い見識と想いがこの作品を能仕立てとして構成されていることを喝破された。このことは漱石研究の上では大なる衝撃ではなかろうか。
氏の想いは駈け廻り昨年「群読能劇・草枕讃歌」を発表された。ちいさなギャラリーでの発表会であったが、今年は劇場での公演を目論んでおられ、ゆくゆくは東京上演と云う大きな目標を持っておられる。漱石没後100年が2016年、生誕150年が2017年であり時まさに至れりの感がある。
氏が寄せられた一文を御紹介する。
群読能劇 「草枕讃歌」
漱石年表によると明治二十一年九月二一日より東京帝国大学大学院において神田乃武に指導を受けたとある。神田盾夫先生のお話によると乃武は幕府の「触れ流し」松井家の次男で神田孝平家へ養子に入られたとのことであった。先生は松井家を懐かしみ「小面」の制作を筆者にご依頼になり長く御殿場の居間の壁に掛けられていた。乃武が漱石に英語を教えた期間や成績は不明であるが、明治二十二年、漱石は同級の正岡子規と意気投合したと云われる。漱石全集の明治二十三年に 「白雲や山また山を這いめぐり」という俳句が収録されているが、この作品の意味合いは謡曲を嗜んで居ないと判らない。 子規との交友により生まれた俳句であると 大凡断定して置きたい。
子規の故郷松山の旧藩主は久松家であり、当時、熊本と並んで能楽の盛んな土地柄で、子規門下の高浜虚子、川東碧梧堂は玄人はだしの謡手であり、師の宝生新のツレとして舞台を勤めるほどであった。
件の「白雲や」は大曲「山姥」の「鬼女が有様見るや見るやと峰にかけり谷にひびきて・・・山また山に山めぐり・・」から採られている。漱石が若年の頃から 多くの謡本を座右にしていたことは疑いない。
扨、熊本を題材にした名作「草枕」である。漱石が熊本時代五高の同僚から謡を習い始めたと云うことは割に知られているし、「永日小品―元日」には木曜会に集う門下生の前で謡を披露する自画像を描き、大作「行人」には侮るべからざる漱石の能についての深い造詣が示されている。
伝説のピアニスト グレン・グールドやアニメの宮崎駿に「草枕」がこよなく愛されていると聞くことがあるが、「草枕」が「能そのもの」であるとするコメントは 漱石生誕一五〇年、没後一〇〇年を控える今日まで寡聞にして耳にしたことがない。
「草枕」の 第一章の中程には、「しばらくこの旅中に起きる出来事と、旅中に出遭う人間を能の仕組みと能役者の所作に見立てたらどうだろう・・・」と漱石自身が宣言しているのにである。 数十年ぶりに 冒頭の「山道を登りながら・・・」を再読して最初に直感したのは、「これは ワキだ !」と云うことであった。能は多くの場合「次第」と云う「囃子と謡」にのって先ずワキが舞台に登場し、名乗り、道行き、着セリフと進行する。
「草枕」に於ける著者の分身である画工をワキと比定すれば、シテが那古井の那美さんであることに誰しも異論はないだろう。以下、物語の進行に沿って 茶屋の婆さん、馬子の源兵衛、那古井の小女などをワキツレ、床屋を狂言のシテ、那古井の隠居、本家の兄、従弟の久一を那美さんの身内としてシテツレ、海観寺の和尚を狂言アド、小僧了念を小アドなど割り振って行けばよいのである。
また、「草枕」の仕組みは十三の章(場)から構成されているが、第一章から第七章までを第一幕、第八章から一三章までを第二幕と分けることが出来る。前半の主題が画工と那美のロマンチックな出会いであり、後半のそれは 日露戦争などを背景にした近代文明への警告である。今日的に言えば、漱石が原発を語るといったところである。
又能の視点からみれば、前半は能「求塚」、後半は能「道成寺」を下敷にして物語られている。劇作法の公式に従い、起(第一章~第四章)承(第五~第七)、転(第八~第一〇)、結(第十一~第十三)と仕分けることもできよう。更にこの起承転結には夫々序破急が仕組まれているのである。
筆者は漱石が英文学の研究に当たり、シェークスピア他の劇作方式を学び、日本古典劇の能楽にも同じ方式を探ったものと想定している。そしてこの方式は愛弟子である同じく英文学者の野上豊一郎(作家弥生子氏の夫君)によって引き継がれ大成されたと考えている。野上は二百五十番に上る能を分析整理し、昭和十年中央公論社から「能楽全集全六巻」として上梓している。
筆者が「草枕」に適用した方式は野上豊一郎のこの公式にしたがったものである。漱石と豊一郎が能の劇作法を語り合っている場面が想像される。
漱石こそ現代にいたる近代能楽研究の先駆者であったろう。
二,三年前、渡辺勝夫氏の話から、郷土玉名の先輩木下順二氏の群読劇「子午線の祀り」の映像を探して、初台の新国立劇場のビデオ室に籠ったことがある。源平物語を素材とする能を朗読劇に仕立てたもので、優に四時間を超える大作であった。
この折、初台から徒歩で参宮橋の服部隆一氏を見舞ったが、面会は叶わず奥様と一時間ほど 近くの茶店でお話を頂いた。
筆者は群読と云うジャンルが特に学校教育で用いられていることを知り、能の仕組みと能役者の所作を再構築し、漱石の言葉とリズムは其のままに残して「草枕」を「群読能劇―草枕讃歌」として再構成したのである。
平成二五年十二月七,八日の両日 成功裏に 熊本市河原町で実験的公演を行い、「草枕」に新しい命を与えることが出来た。八日には東京から同期の片岡武彦・京子氏が来会され、「草枕変奏曲―夏目漱石とグレン・グールド」と「英訳草枕―The Three Cornered World」を持参して頂いた。二十六年秋には400席ほどの森都心ホールで公演を継続し、更に広く、又 時代を超えて「群読能劇―草枕」が受け継がれることを念願して已まないところである。
平成26年4月17日