ガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎の子・与三郎長定(刑部入道玄也)は、敬虔なるキリシタンの故を以て妻子等とともに寛永十二年十二月二十三日誅伐される。ここに至る経緯については 細川家史料に見る切支丹弾圧の経緯 で書いた。
今般、熊本県史料・近世編二 p241 にある、有吉頼母佐・長岡監物宛て十二月三日付忠利書状に直前の消息が記されているのを見つけた。
玄也儀付而長崎榊飛騨殿へ皆かたゟ状を進候 其御返事
之写先度越候見申候 重而玄也事可申遣候 兵庫屋敷の
裏ニ置候由得其意候事
これはこの書状の頭書に「十一月二日三通同五日之書状披見候」とあるところから、この時期玄也に対するなんらかの処分が命じられ、玄也が妻子らとともに拘束されたことが判る。諸資料に玄也の屋敷は塩屋町に在ったとされる。町とはいわゆる町人が住むことを意味するが、新一丁目から三丁目につながる城下随一の商家の町でもある。ここに侍屋敷が混在しており、中級家士の屋敷が多く見られる。玄也が住んでいた場所は特定できないが、兵庫屋敷というのは、田中兵庫(氏次・鉄炮頭1,000石)の屋敷のことと思われる。これは塩屋町にほど近い新一丁目御門前に同家の下屋敷が二三軒見える所から、ここを質屋として拘束したのであろうか。
榊飛騨(榊原職直=長崎奉行)からの書状と云うものを確認していないが、十二月三日に発せられた書状から誅伐に至る日数が二十日程しかないところを考えると、榊飛騨の書状は玄也の処分が指示されたものであった可能性がある。
忠利は再三再四切支丹を転ぶように諭したとされ、又、榊原職直とは大変親しい間柄である忠利であるが、ここに至っては如何ともしがたい状況である。
この書状が熊本にもたらされて間もなく、禅定院(現在の禅定寺の地ではないとされる)で処刑された。
一通の書状の数行の文字が語りかける意味が大きい。