津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■小笠原玄也消息

2014-04-10 18:25:10 | 人物

ガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎の子・与三郎長定(刑部入道玄也)は、敬虔なるキリシタンの故を以て妻子等とともに寛永十二年十二月二十三日誅伐される。ここに至る経緯については 細川家史料に見る切支丹弾圧の経緯 で書いた。
今般、熊本県史料・近世編二 p241 にある、有吉頼母佐・長岡監物宛て十二月三日付忠利書状に直前の消息が記されているのを見つけた。

                 玄也儀付而長崎榊飛騨殿へ皆かたゟ状を進候 其御返事
                 之写先度越候見申候 重而玄也事可申遣候 兵庫屋敷の
                 裏ニ置候由得其意候事

これはこの書状の頭書に「十一月二日三通同五日之書状披見候」とあるところから、この時期玄也に対するなんらかの処分が命じられ、玄也が妻子らとともに拘束されたことが判る。諸資料に玄也の屋敷は塩屋町に在ったとされる。町とはいわゆる町人が住むことを意味するが、新一丁目から三丁目につながる城下随一の商家の町でもある。ここに侍屋敷が混在しており、中級家士の屋敷が多く見られる。玄也が住んでいた場所は特定できないが、兵庫屋敷というのは、田中兵庫(氏次・鉄炮頭1,000石)の屋敷のことと思われる。これは塩屋町にほど近い新一丁目御門前に同家の下屋敷が二三軒見える所から、ここを質屋として拘束したのであろうか。

榊飛騨(榊原職直=長崎奉行)からの書状と云うものを確認していないが、十二月三日に発せられた書状から誅伐に至る日数が二十日程しかないところを考えると、榊飛騨の書状は玄也の処分が指示されたものであった可能性がある。

忠利は再三再四切支丹を転ぶように諭したとされ、又、榊原職直とは大変親しい間柄である忠利であるが、ここに至っては如何ともしがたい状況である。
この書状が熊本にもたらされて間もなく、禅定院(現在の禅定寺の地ではないとされる)で処刑された。
一通の書状の数行の文字が語りかける意味が大きい。 

 

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■雨降りのからかさ

2014-04-10 18:25:02 | 史料

 年代がはっきり記されていないが、島原の乱の時のものと思われる書状の書き出しの部分にこのように書かれている。(熊本県史料・近世編二 p646)

         雨ふりのからかさとやらんにてむりなる儀を申上候處陳所則御かし忝奉存候
         貴様御陳所も横思召まゝニ無御座候處日本の神そ/\御懇切忝さ書中ニ不
         得申上候 唯今致伺公可申上之處乍自由小尾(屋カ)をかへさせ申候而為申
         候間先如是御座候 如何今晩か明日辺参上申候而御禮可申上候さて/\忝
         奉存候/\ 人七八百馬二・三百き様御情により此度之用ニ拙者所ニおき申
         候 左なく候へハ山をへたてゝよそのものに忝奉存候/\
                正月十日                    立花左近
                                               名乗
               (右此状封切ニ而双方之御姓名口ニ有之)
                    細肥州様
                        人々御中 

 立花左近とは柳川藩主・宗茂のことである。細川家と立花家は大変親しい間柄であり、文中にもそれを思わせる雰囲気が見て取れる。
左近(宗茂)はこの時期(寛永十五年)71歳であるが、島原の乱に於いて「総大将の松平信綱を輔佐し、軍事進言や戦略面の指揮を執り、有馬城攻城時には昔日の勇姿を見せ、諸大名に武神再来と嘆賞された。」(ウイキペディアより)
光尚は20歳の若者であり、十二月六日に熊本に入りそのまま宇土➔郡浦➔天草➔河尻と動き、年が改まった一月四日川尻から渡海、五日有馬に着陳している。 そんな時期に宗茂の申し入れがあり、その旨を承諾したことに成る。

「雨ふりのからかさ」の本来の意味は如何なるものか知らない。しかし礼を尽くした書状であり、日を改めて陳所に挨拶に訪れるというのである。
宗茂の老練さと温かみ或る人柄が偲ばれる。 

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■縁組 佐分利家×松岡家

2014-04-10 11:05:28 | 人物

 寛永五年十一月十七日付「覚」に佐分利家と松岡家の縁組の事が書かれている。(熊本県史・近世編二 p304)
この文書は奉行所から忠利に対して決済を受けるべく上げたものでその数は34項目に上っているが、その一つ一つに決済の書き入れがなされ御印が為されている。さて表記の一件、 

        一、佐分利兵大夫娘松岡久左衛門せかれ藤八郎ニ申合度御座候由申上候事

何の変哲もないものだが、松岡久左衛門の名前があったので取り上げてみた。松岡久左衛門には次の様な有名な逸話がある。

        松岡久左衛門逸話 「島原一揆」
       右仕寄番之内、或夜余寒甚敷風つよく有之候ニ、松岡久右衛門生膚に甲冑を帯し、
       当番にてふるひ居候を、門司源兵衛是を見て、拙者ことき若者さえ下着を用、寒気
       を防ども堪かたきに、老人のふるまひを見て恥入候也と云けるを、久左衛門聞て甚
       悦ひ、御存之通七十に余り寒気を好、如此の事二ハ無之候、平成高禄を貪、殊に
       大勢の組をもあつかり、何の奉公も不仕候へハ、幸の死時と存候也、今にても城乗
       といわむに各のことき壮勇の輩ハわれ先とすゝミ入らんに、老体中々及かたき事必
       然也、責てハ少にても身をかろくせんため寒気をたへて如此也と云けれハ、門司甚
       感心し、二十七日城乗の時ハ松岡を目当としてすゝミ手に合、松岡ハ組を励し、本城
       の下にて鉄炮に中り死す、此松岡勇名高き事、三斎君被知召、慶長六年豊前にて
       被召出三百石被下、弓足軽廿人忠利君より御預ヶ被成候(綿考輯録・巻四十五)

この久左衛門せがれ藤八郎に佐分利兵大夫が嫁ぐというのだが、忠利は「心まゝに可仕候」と決済している。
松岡家の侍帳を見ると久左衛門の次の当主は文太夫とある。松岡藤八郎の名前は (1)馬廻組三番 百五十石 (於豊前小倉御侍帳)、(2)御馬廻衆 百五十石 (肥後御入国宿割帳)と見えている。文太夫と藤八郎は別人であろうと考えられるが、分家筋には藤八郎につづく家系が存在していない。

一方の佐分利家は作左衛門(御鉄炮三拾挺頭 八百石)の分家筋、五百石の彦右衛門(兵大夫)だと思われる。
その息が佐分利越人で
   七兵衛と称し、名は氏恒、越人は其俳名なり。芭蕉の門に入り
                  俳諧を善くせしを以て名あり。
佐分利家は熊本藩の佐分利流
                  槍術家なり。越人は其家の養子たるものなり。故ありて肥後を
                  辞し、尾州名古屋に来り、紺屋を業となす。
                  元禄十五年三月十四日没す。享年未詳、墓は坪井流長院。
 

ところがこの芭蕉の門人説は「芭蕉門下に越知越人という人が有り、父親が肥後浪人佐分利某だという誤傳が流布していたことによる」とされる。


 

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