津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■おすま様

2014-04-08 13:38:45 | 人物

 ある記録にこうある。(熊本県史・近世編ニ p384)
 一 すま是者花畑ニ居申候 右ニ遣置候を當年ゟ五石増候而拾石ニ仕永可遣也
       寛永貮拾年三月十三日御印
                        奉行中

 さて聞いたような名前だが何方だろうと考えた。日附の寛永二十年からすると御印の主は光尚公という事に成る。
お裏に勤める女中衆にしては高禄である。なにかしら特別な女性かしらと考えていたら、ふと思いついた。もしや・・・・・・・・
これは三齋公の晩年の艶聞だが過去にブログにかいた。その時の一文をそのまま引用する。 

 三斎は孫娘祢々(三斎女・萬 *烏丸中納言光賢卿簾中* の女、細川光尚室)のお側に幼少のころから召し置かれていた「みつ」という娘を、十四歳になったころもらい受けた。「格別の御憐憫を以召仕れ」ていたが寛永十七年八月、俄かに深尾長兵衛なる者に下し置かれた。身重であったみつは翌月女の子を出産する。「くま」と名付けられたこの赤子は当然の事ながら三斎の子である。三斎七十八歳であった。「御老年の御事ニ御座候とて、御隠密ニ被遊度思召上られ」たが、お七夜には産屋に入り守刀や産着、白銀、御樽・肴を届けたという。また台所向賄いを心配し乳母抱守の手配をし、長兵衛には知行五百石が宛てがわれた。後くまは名をすまとかえる。三斎の没後は烏丸光賢卿簾中萬からすまに対し扶持が下されたらしい。生前の三斎の配慮ではなかったのだろうか。後年長兵衛は弟伊兵衛を養子とし、すまと娶わせ家督させる。源六という子をなすが源六が五歳の時すまは亡くなったらしい。みつなる人の消息は知れない。享保三年深尾源六の記録である。

(正保二年十二月付け「八代分領侍帳」に深尾長兵衛五百石、おすま二百石などの記載が確認できる。深尾長兵衛は忠興死後、肥後を離れている。細川興秋を葬ったという京都稲荷山近くの、南谷という所に「ありのやま墓地」があり、ここに長兵衛の墓がある。傍らに深尾源六郎の妻という墓があるという。はたして何方だろうか)

年代からいうとなんとなく同一人物かなとも思えるのだが、三齋の御子は深尾氏に預けられているから違うようにも思える。
光尚の配慮として「花畑ニ居申候」ものとして扱い、禄が与えられたという事はないか・・・・・わからん 


コメント
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