津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

★T20和本江戸期熊本藩細川家写本「澤村大学覚書」1冊忠興古文書

2014-04-03 13:14:24 | オークション

                 ★T20和本江戸期熊本藩細川家写本「澤村大学覚書」1冊忠興古文書

                                         ★T20和本江戸期熊本藩細川家写本「澤村大学覚書」1冊忠興古文書

 沢村大学には、沢村大学介覚書「三斎公御軍忠之儀・・大学書付上ヶ候写」と、沢村大学殿覚書「軍中種々の心得」の二つが残されていますが、これは前者のようです。
写本は結構出回っているようですが、残念ながら何方が写されたのかが判らないようですね。

 

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■長岡河内と町源左衛門

2014-04-03 07:39:52 | 人物

長岡河内・町源右衛門は共に三齋の側近であった。ふたりの違いは河内は三齋の死まで務めたが、源右衛門は三齋の怒りをかって離国している。
河内も三齋の死後離国しているが、二人は後に老中堀田加賀守(正盛)に仕えることに成る。

河内は本名・村上縫殿介景則、備中笠岡城主村上景広の子であり、大坂の陣では先日ご紹介した清田七助に続いての高名を挙げている。
           「知行二千石御腰物三原  村上縫殿介景則後長岡河内 鑓ヲ合、高名ハ無之、疵三ヶ所(ィ二)、刀二鑓疵二ヶ所(ィ三)」
時期がはっきりしないが長岡姓を拝領し河内と名乗った。八代に於いては家老職を勤め一万石を領した。村上水軍の末裔である。
三齋の死後、その遺言を実行すべく行動をしている。後に宇土に立藩する行孝とその一族の行く末を案じての事であった。しかし彼の行動は本藩からいささかの疑いの目を持ってみられていた節がある。そして離国するのである。

一方の町源右衛門は、長曽我部元親の弟吉良親貞ノ子・左京進親実の子である。三齋の江戸藩邸の留守居役をしていた時、光尚の室・彌々姫が産後死去したことに付、その前後の報告が気に召さなかったらしく扶持放しという処分を受けた。これは光尚自身が祖父である三齋に対して心配を掛けないようにとの配慮があったとされ、そのとばっちりを受けている。忠利によりしばらく我慢するように諭されたが、のち離国して堀田加賀守に仕えた。
源右衛門の子供たちは熊本に残り、宝暦の改革などでは大いなる活躍をして名を残している。

三齋死後の八代の動きは大変不可解なものがあり、これらは丹羽亀之允の報告書で家臣らの行動を含め詳細に報告されている。
そんな中での河内の離国も大変注目されていたらしく、その後の行動について言及する文書も見える。
再仕官も難しい状況にあったようだが、時の老中堀田加賀守(正盛)に召し出される。その加賀守が光尚に呈した書状が次のようにあるが、細川家旧臣を召し出すことに大変心配りの書状であることが伺える。 

                    猶々御病中御披見もいかヽと存候へとも如此ニ御座候
                    必不及御報候以上
                其後使を以も御見廻不申候御気色次第ニ被得御験気候哉承度奉存候左様に
                御座候得ハ御同名三齋被召仕候長岡河内儀帯刀殿見廻として罷下候由承候
                彼者いまた浪人にて長崎ニ罷在候由承候ニ付前かとより存候者儀ニ候間此方
                へ罷下心安被居候様ニと町左近を以内談いたし候處ニ同心に候此段早々可得
                御内意候処ニ此度ハぬし身代之とんちゃくよりも無之見廻迄に罷下候と申候ニ
                付隠密ニ而申合候儀ニ候へとも自他ワきよりも御聞可被成と存如此ニ御座候委
                細ハいつにても面上可得御意候恐惶謹言
                    (慶安二年)六月二日              堀田加賀守(判)
                             細川肥後守(光尚)様
                                     人々御中

三齋の死は正保二年十二月であり、この書状の時期まで三年あまり経過をしている。文中に町左近成る人物がよく判らないが、私は源右衛門そのひとではないかと推測している。河内にしろ、源右衛門にしろその出自や御役目を通じて、幕府高官との付き合いもあったであろうが、ここは源右衛門などを通じての肝煎りなどもあり、再仕官がなったと解すべきであろう。
堀田加賀守は春日局の血は繋がっていないが孫にあたる人物で、細川家とも懇意であったようだ。将軍家光のお気に入りの人物で兎角のうわさがあるが、家光の死去に伴い殉死している。河内の再仕官がなったであろう時からわずか二年足らずである。
その後の二人の動向は知りえないでいる。 

 

 

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