17日の熊本史談会では天草島原の乱における「証拠状」を取り上げようと思っている。
これを前にして泥縄式の勉強をしようと思い、綿考輯録や「細川家史料による‐天草島原の乱‐」その他の蔵書を引っ張り出して読み始めた。
まずは、2月27日の鍋島勢の軍律違反である抜け駆けあたりからである。
図面中央から上が原城、そのがけ下に諸将の陣地が見える。左端の朱が入れられた広い部分が細川勢、その右となりの縦長のブロックが久留米の立花勢、さらに右手の縦長のブロックが松倉勢、次が有馬勢、そしてその右、出丸の下が抜け駆けをした鍋島勢である。
幕府から派遣された諸将たちは、はるか後方に陣取っている。
26日の軍議で翌27日火攻めをする予定であったが雨天故に28日に総攻めと決定した。
処が27日、鍋島勢の仕寄前の出丸は敵勢は明け退いているらしいとして、竹束などで思いのまま仕寄を構築したが、それでも向かえ来る相手もおらず、鍋島勢は勢い付抜け駆けをすることになる。これをきっかけとして諸軍勢は我先にと場内を目指して兵を進めた。
そしてわずか一日で一揆勢を攻め落として20,000余の首を落とした。幕府軍も1,100余の死者と、7,000に近い手負いのものを出している。
功名を上げようと熾烈な悲喜こもごもの戦いがおこなわれたのである。今回の史談会の目的は、細川勢の「証拠状」を資料にその一端を覗いてみたいという趣旨である。