三月朔日
| (松井興長)(有吉英貴)
| 一、御舟頭中村二郎左衛門尉罷下候ニ、式ア少殿・頼母佐殿ゟ、御文箱壱つ上り申候事
| (薜)
唐人薜少峯借米 | 一、少峯米之儀、御貸付被成被下候様にと、申越候、利分之儀ニかまひ不申候由、申越事
田川郡上下共ニ奉 | 一、田川郡上下分テ被 仰付候へ共、上下共ニ、両人ニ而可申付候旨、被 仰出候、則、林與兵衛ニ
行林與兵衛等二名 | 申渡候事
| (景広)
| 一、村上八郎左衛門百性之出入、相済申候事
| (造作銀)
造作銀ハ算用所ニ | 一、造佐銀、以来、算用所へ指置候而、可相渡旨、被 仰出候事
テ渡ラシム |
| (朽木昭知)細川幽齋実兄・三淵藤英の息
| 一、三淵與七郎殿内衆下候ニ、式ア少・頼母佐言上之文箱、一つ差上ケ候事
在所へ賜暇願 | 一、大村久兵衛、在所へ御留守ニ参度由申候間、日限相定、可遣旨、本庄久太夫を以、被 仰出候事
| (掘)
金銀ノ鏈掘当ノ時 | 一、金銀ノくさり堀付候共、其まゝほらせ候て、江戸へ注進可仕旨、被 仰出候、慥成せうこ見届不
ノ措置 | 申候内ニハ、無用之由、 御意候事
| 一、小谷忠次郎家指図事
松野親家ノ明屋敷 | (松野親家)
借用希望者ヲ募ル | 一、利根川道孝明屋敷かり度と被申候候ハヽ、かし可申候、望もの有之ハ、其時は宿替可被申事
・はじめ田原常陸介親家。大友義鎮の二男。大友家没落後剃髪して松野道孝と改む。慶長六年忠興に召出され、三十人扶持、合力米百石。
寛永十八年三月二十五日歿。利根川道孝ともいう。松野親盛(半齋)は弟、親英(織部)は子。(御家中傳系)
明家ヲ籤取 | 一、明家共ハ、則、直段相究候而、望候もの候ハヽ、鬮取ニ可申付、御意事
| 一、岩崎太郎兵衛儀、其まゝ置可申旨被 仰出候事
永良長兵衛加増 | 一、永良長兵衛ニ、御加増被遣候事
| (直純) かんノ
有馬直純使者 | 一、有馬左衛門尉殿ゟ、御使者■菅行恵
| 一、団左兵衛罷下候事
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天草島原の乱に関する史料として、通称「志方半兵衛言上之覚」と称する史料がある。
原本がどこに在るのかは承知しないが、熊本県立図書館には次の三件の写本が収蔵されいる。
上記写真は「佐田文書71 志方半兵衛有馬陣中より吉田ニ被成御座候三齋様江言上之書翰写」である。
その他 1、雑撰録54 志方半兵衛言上之覚
1、上妻文庫47 同上 がある。
雑撰録は宮村典太が佐田氏から借り受けて書写したものである。
上妻文庫は雑撰録をさらに上妻博之氏が昭和11年12月26日から昭和12年正月6日にかけて書写されたものである。
122葉244頁に及ぶ大部である。
細川立允(立孝)は三齋の陣代として出陣するが、志方半兵衛をして寛永14年12月12日付を第一便として、当時京都の吉田山にいる
三齋に島原の乱の顛末を随時報告している。
つまり「志方半兵衛言上之覚」とは戦況報告の書簡集である。
余りの大部であるため、さらりと目を通しただけで釈文も作っていないが、そろそろチャレンジをしながらご紹介していこうかと思っている。
新たな知見が得られるかもしれない。