史談会で資料として使わせていただく島原の乱に関係するS家文書、私が大いに難儀しているのを見て持ち主のS氏が、13日熊本市の歴史文書資料室で行われている「古文書解読」の催しに出かけられた。
是非とも使いたいと思っていた一部文書が、古文書解読の専門家の手により完読され、わざわざ昨日早朝S氏がお持ちいただいた。
S家の彦右衛門なる人物は、首に切りつけられているが命に別状なく働き、敵を倒して功名を上げている。
2月27日の総攻撃のあと、28日には城内の残党を掃討して落着しているが、関係文書をみると翌29には自分の働きを備頭あてに提出している。
自らの働きを書上げ、これを証明してくれる人の名前を記載している。
先にも記したように戦いの最中に尾藤金左衛門(3,000石)と出会い、証拠人になってくれるように依頼しているが、金左衛門は自分が生きていたら喜んで証拠人になろうと確約している。一方討ち死にするかもしれないから、自分の家来二人に対してお互いに名乗り併せて確認させている。
金左衛門は本丸下の崖を登る途中で、上からの投石にあたりがけ下に落ちるものの、再び駆け登り、今度は喉(口とも)を鎗で突かれてがけ下に落ち絶命した。綿考輯録はその高さを20間(36mほど)と記している。
彦右衛門が金左衛門の落命をいつ知ったのかは分からないが、金左衛門の家来と行動を共にしたらしく、その一人・浅川喜平次という人物から証拠状を貰っている。卯月17日の日付である。
彦右衛門は敵を倒し功名を上げているが、首を取ることはしていない。事前にお触れが出され「打ち捨て」が言い渡されていることによる。
そこで証拠として彦右衛門は相手の「鼻をそいでいる」。
そしてこれを御国牢人・菅屋一運なる人が確認しており、証拠状として記名はない(花押あり)が当人と思われる文書が3月8日付で残されている。
S家の文書は扣であろうと考えられる。
S家の文書は6通に及ぶが、非常に早い段階から各人の戦いにおける行動を確認する作業が行われていることが判るし、戦い翌日の記述などは臨場感あふれる生々しさがあふれている。
改めていろんな資料を読んでいるが、誠に悲惨な戦いであったことを実感し、その一因は国を治める人の人格や力量不足が大きく影響しての苛政であることを実感する。
権力というものの恐ろしさである。
17日の史談会例会の史料は何とか間に合わせることが出来た。
総量11頁、20部ほどを準備すれば1件落着である。
残りの時間はまだまだ関係資料を読み込まなければならない。