津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■元和十年・正月「京都郡惣庄屋等申状案」

2019-08-20 17:48:56 | 細川小倉藩

21京都郡惣庄屋等申状 |    
           |      申上覚
   永荒新地     | 一、御帳ニ付申候永荒・新地之内、所ニゟ悪敷所ハ作仕候而も、種子米ほとも毛上出来不申ニ付、荒
   種子米ホドモ毛上 |   シ置申候、御年貢米弁上納仕、御百姓迷惑仕候間、御百姓勝手次第ニ、所をひきかえ、開申様ニ
   ナシ 開変ヲ願ウ |   御ゆるし可被下度く事
            | 一、御郡中ニ、御為ニ成申儀御座候ハヽ、重而吟味仕、可申上候所、如件
            |     元和十年正月十九日               京都郡御惣庄屋
            |        白井兵助殿                   雨窪二郎右衛門
            |        宗像清兵衛殿                同   堅島四郎左衛門  
            |                                岩熊孫兵衛
            |
   惣奉行用状案   |   右表書之通、白井兵助・宗像清兵衛得 御諚候ヘハ、御郡奉行衆と立相、勝手次第ニ、開替可申
            |   之旨、被 仰出候間、被得其意、可被申付者也
            |     元和十年正月廿一日           西郡刑ア
            |               右ノ惣庄屋三人へ  浅山清右衛門
            |                         横山助進
            |            

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■御侍帳・家紋から考える(12)

2019-08-20 09:48:07 | 家紋

             久々に復帰再開しました。
  
                       

 ■貫 尚八(100石)は「貫 角太郎家(南東11-14)」の7代目で「御小姓組・落合弥次兵衛組・御給仕根役」を勤めた。
  家紋は「子持ち丸に七曜」紋である。

 ■小笠原大部(6,000石)は【丹後以来】の家で、ガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎の嫡流家(備前家)の「小笠原七郎家(南東13-3)」の8代目・美濃長頭
 (養子・7代目長栄の実弟・唯之助・大部)である。

  別禄千俵で用人を勤め、享和元年十一月兄の跡を継いで跡目し、大目付・中老職・家老職等を歴任し、文化十一年致仕、隠居料百人扶持  
  家紋は「三階菱紋」である。

 ■小笠原庄左衛門は「七郎家」の初代・備前長元(長基)の二男庄左衛門・長昌の流れである。丹後以来小笠原夫五郎家(南東13-4)」の6代・泰助(庄左衛門)か。
  家紋は本家同様の「三階菱紋」である。  

     
 小笠原一学は同上二家とは全く異なる小笠原多宮系(細川忠利夫人保寿院の実家、小笠原秀政流)で、「小笠原一学家(南東13-5)」の5代・一学か、家督知行千九百石、大組付、比着座、留守居番頭 天保十一年正月歿・五十二歳
  家紋は「丸に三階菱紋」である。

 ■大木弥助は、加藤清正に近侍して著名な大木弥助兼友の子孫である。「大木摠馬家(南東13-1)」の7代目・弥助兼福(実五代舎人兼秀子)である。
  寛政十年七月跡目相続 中着座、番頭、備頭 文政十二年二月致仕、文政十三年十二月二十六日歿・六十二歳。 
  家紋は「子持ち隅切り角」「浜洲」である。

 ■大木弥七右衛門は、同上摠馬家の二代・舎人の弟・七右衛門を初代とする「大木桃次家(南東13-2)」の5代・弥七左衛門(七右衛門)か。 
  御留守居御切米取触頭・大組頭 五百石 
  家紋は「子持ち隅切り角」は本家同様、今一つは誠に珍しい家紋で名前を知りえない。御存知の方のご教示を給わりたい。     

 ■大城多七郎については同名の人物が先祖附の索引の中に見当たらない。多十郎の誤植ではなかろうか。
  多十郎であれば「大城多十郎家(南東13-19)」があり、その5代目であろうと思われる。  
  「大城壺梁 名は煥、字は文卿、多十郎と称し、壺梁と号す。初め微賎の者なるも学問勝れ、時習館助教となり禄百石を受く。
  又詩文及び書を善くす。
壺梁先生遺稿あり。文化八年七月二十五日歿す。年七十一。墓は柿原山にあり。」
  家紋は「八段鞠挟み」今一つは文字紋であろうが詳細を知りえない。

 ■大山元格は医家「大山元保家(南東56-7 医)」の4代目・元格(玄格)触役触・本道鍼科兼 高百石之御擬作 
  家紋は「子持ち丸に四つ石紋」「子持ち六角に四つ?」

 ■大塚藤右衛門は「大塚源次家(南東14-18)」の5代目・源次郎(藤左衛門)の事だと思われる。
  3代に同名の丹左衛門久成(藤左衛門)が居るが、横井小楠などに大なる影響を与えた朱子学の「大塚退野」である。
  家紋は「四方滕(ちきり)」か

 ■大塚仁右衛門は「大塚平太郎家(南東14-19)」の4代目か。
  家紋は「・・・」勉強不足で知りえません。御存知の方はご教示ください。

 ■大塚七兵衛は「大塚五郎家(南東14-16)」の6代目の七兵衛(金右衛門)御知行取諸御目付 百五十石または7代目の猪久太(七兵衛・五郎右衛門)のどちらか?
  人物の特定ができない。家紋は上記平太郎家と同様である。

 ■大浦嘉平次は「大浦嘉太郎家(南東55-14)」の5代目である。
  家紋は、「隅切り平角に四ツ目結紋」である。

 ■大塚勝助は「大塚為三郎家(南東14-21)」の6代目である。
  家紋は「左巴紋」下の家紋は絵柄が判然とせずよくわからない。

 ■大塚瀬助は「大塚甚太郎家(南東14-22)」の5代目である。
  上の家紋はアレンジがすごく名前についてはよくわからない。今一つは「巴文字紋」

 ■小山善十郎については「細川家家臣略歴」に名前を見つけ出しえない。
  家紋は「隅切り角に扇紋」

 ■小山万次についても「細川家家臣略歴」に名前を見つけ出しえない。

 ■大槻謙太は「大槻忠太家(南東15-12)」の 4代目・哲太(謙太)三百石当時百五十石
  名は清通、好んで周禮を讀む。斎藤、境野等と犬追物を興すに與りて力あり。文化六年五月廿六日歿す。年五十二。
  家紋は「丸に三つ地紙」

 ■大槻三郎助は「大槻軍五家(南東15-14)」の5代目である。
  家紋は「丸に二つ地紙」、忠太家と同族である。

 ■大槻勘十郎は丹後以来の「大槻勘十郎家(南東15-13)」の6代目、上記二家とは祖を異にする。
  家紋は「丸に井桁に三?」「丸に木瓜」紋である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする