熊本市の下水道のマンホールにケロロ軍曹が登場した。漫画家である吉崎観音さんが熊本市ゆかりの方であることの所以である。
まだ熊本駅前と花畑公園の二ヶ所らしいが、追々熊本市内の主だったところに登場して人気を博すことだろう。
現在熊本市水の科学館(外部リンク)と熊本駅総合観光案内所(外部リンク)でカードが配布されているらしく、子供たちで賑わっているようだ。
お盆の帰省の折にでも子供さんの為にお立ち寄りください。
島原の街に美しい姿を見せる現在の島原城は、昭和30年代初頭に復元の機運が本格化し約10年ほどの年月を以て再建されている。
城下町の風情が残る奇麗な街だが、寛永元年に寛政した当時は松倉氏による苛政によって建てられた「恨みの城」であった。
島原の地は元々は400年程を有馬氏が納めてきた。また切支丹大名でもあったため多くに切支丹が住み着いていた。
有馬氏は晴信の時代に「岡本大八事件」がおこり晴信は切腹させられ有馬家は一度所領を没収されている。しかしその子直純が徳川家康の養女を妻としていることから許されて遺領を相続した。しかしその後自ら願って縣(延岡)へ転封となった。
その後に入部したのが松倉家で、わずか4万石でありながら10万石相当の苛政を敷き住民を苦しめたのである。
その残虐な施政は米を納める事の出来なかった者の、産み月を迎えた妻女を水攻めにして水中で出産させその子と共に殺害した。
これが島原の乱の発端だとされる。10有余年の忍耐の歳月を経て、かっては有馬氏の家臣であり帰農したものや、百姓などが火の手を上げたのである。
そして彼らは一応の成果をあげると、廃城となっていた原城に入り、5~6日で石積みなどを復元したとされる。
これに天草から「四郎時貞」らが参加して籠城戦が勃発していく。
原城の総攻撃には、有馬の周辺の諸藩が先鋒を仰せつかった。かっての藩主・有馬家(延岡藩)や当事者である松倉家は当然の事である。
その結果は、籠城軍は皆殺しにされ、幕府軍も大いなる死傷者を出す結果となった。
松倉家はその責任を追及されて、松倉勝家は打ち首となった。徳川家の歴史の中で唯一切腹ではなく打ち首の処分がなされている。
現在の島原城を訪ねると、代々の藩主家の旗が閃いているが、その中に松倉家の旗も翻っている。
島原城の公式ホームページをみると、「武将隊演武」などの中に松倉重政の名前が見えている。
数万の有馬の人たちが犠牲になったことを考えると、これには少々違和感を感じるのだが私だけだろうか?
熊本史談会の例会で「天草島原の乱」を取り上げるにあたり、感慨を新たにしている。