「志方半兵衛言上之覚」を読んでいる。最終的には「かうつら」と読んだのだが、「加う徒ら」という表記に何と読むのか大いに苦労した。
細川三齋の陣代として、天草島原の乱に出陣した愛息・細川立允は、寛永14年12月7日に天草の寸本(栖本)に着舟して上陸している。
山越えをして島原湾に面した上津浦に陣を進めようとの考えである。そんな状況の中での記述にこの文言が出てきた。
文書を見ると三行目に「上津浦」の表記があり、五行目に「加う徒ら」の表記がある。
当初は読みも意味も解らず、「加う徒う」とか「加ら徒ら」とか、いろいろ考えるが、何ともしっくりこない。
文脈からすると地名であるようだ。
読み進める中で後段(別紙)に、この文言が二つ三つ登場しており、三つ目の表記で「加う徒ら」であるとの確信を得た。
「加」の読みは「か」ではなく「こ」であり、「こうつら」と読んだがこれでも何とも合点がいかない。
「栖本」周辺の地図を眺めると、上津浦に抜ける天草街道の表記があった。道筋をたどり「こうつら」に該当する地名はないかと探すが見当たらない。とうとう上津浦についてしまった。
「上津浦」の読みは「こうつうら」である。「加う徒ら(こうつら)」は「上津浦」の事だと気づくのに大いに時間を費やしてしまった。
三行目に「上津浦」と漢字表記をし、五行目以降三回ほどは「加つ徒ら」と表記してあるから、まったく振り回されてしまった。
古文書を読んでいるとこんなことは日常茶飯なのだが、解読した後の爽快感はこの上ないものである。
立允様ゟ御飛脚被進候ニ付謹而致言上候
一立允様御人数去ル七日ニ天草之内寸本へ被成御
着船同八日ニきり志たん居申上津浦之近所
川内村へ御押詰被成候処ニ有吉頼母佐方ゟ
越候ハ加う徒らへ取詰申日限御注進仕候間そ連
まて被御待候得と申進候ニ付同九日も河内村ニ
被成御座候処九日之四ツ時分ニきり志たん共恙船ニて
落申候 肥後様頼母所へもきり志たん落申段
立允様ゟ被注進候事