津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■先祖附にみる尾藤金左衛門天草島原の乱での働き

2019-08-12 16:26:41 | 先祖附

                     
                             違い鉞紋 

              金左衛門寛永十五年二月廿七日有馬御陳城乗
              之時三ノ丸乗通二ノ丸土居ニ登申候節は家来
              浅川喜平次柴田長右衛門福山太兵衛手を取
              引上申程之難所之由本丸石垣之下ニ早ク着
              石打甲ニ中リ申候得共とつはい甲を着用ニ付
              石すへり疵付不申候故急ニ乗込申候刻
              鑓手負其場討死仕石垣之下ニ落申候

              同所右家来喜平次も乗申候石打甲ニ中り
              破られ申候得共直ニ乗込候処是又鑓ニてつかれ
              金左衛門側江落重り申候由喜平次其深手ニ而無
              御座金左衛門手之牢人西野五左衛門と喜平次両人ニ而
              金左衛門江取付引立申候得共金左衛門息は絶
              申候旨其後外之侍共取付死骸をかき陳屋江
              帰申候■中蓮池之上ニ而沢村宇右衛門江討死
              之通右家来喜平次申達候馬場三郎左衛門様も

              御一所ニ御座候由
              妙解院様二ノ丸之御本陳江金左衛門死骸かゝせ
              参上可仕旨被仰下右家来喜平次又寺垣

              八兵衛金左衛門鑓持共三人ニ而抱参上仕候得は
              妙解院様御目見江金左衛門死骸かき居へ
              申候様被仰付討死之次第右喜平次江御直ニ被
              聞召具ニ申上候由■被成御意候はよいそ
              つれてゆけと被仰出退出仕候旨御座候右

              金左衛門討死之儀必死之覚悟とそ相見申候
              何方江遣候書状とハ分り不申宛所無之自筆
              物于今残申候廿八日惣攻之前ニ調急拙者儀
              長岡佐渡手に加り先手仕候手安乗取可
              申候其身は■至と討死を■申候あとの事た(堂)
              調申候處折節惣攻ニ罷成候故右之状模置
              打立申候而急ニ三ノ丸江趣申候由一幅を二ツ宛
              切割キ五幅ニ仕候折も不大吹貫之差物ニ黒塗

              仕候大中くり之立物二尺五寸之陳刀大さしはの
              鑓ニ而御座候于今持傳申候右之立物
              妙解院様御目ニ附死後ニ御取寄被成御写成様
              傳承申候其後御用ニ無之趣ニ而其節之立物は
              家ニ請取置申候金左衛門出陳之刻人数二百人
              其内馬乗六人浪人廿人之由申傳候家来
              討死手負之者共家司■野角兵衛儀二ノ丸
              本丸ニおゐて浅川喜平次は石手鑓疵を

              蒙り申候馬乗之内山田清兵衛今一人討死仕候
              若輩之小姓中間小者共も討死仕候者御座候
              右之書出其砌長岡佐渡殿有吉頼母殿江
              仕候私家之扣は先年焼失仕候委細相知不申候
              右家来角兵衛儀御帰陳之上ニ而
              妙解院様御座之間迄被召出御直ニ御褒美
              之由長岡佐渡殿御取次ニ而御座候段加々山
              御傍ニ罷在申候由津川四郎右衛門ゟ之褒美

              状所持仕候

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■尾藤家の家紋

2019-08-12 06:26:12 | 家紋

 天草島原の乱で戦死した尾藤金左衛門は、海手から本丸の石垣にとりついたらしい。
本丸と二ノ丸の間には大きな蓮池があり、その本丸よりであったようだ。
ここで一揆軍は間近に迫った細川軍に対して、石や焼砂、大木、臼、さらには熱湯、糞土や苫に火をつけて落とした。
金左衛門は崖の途中で大石にあたりがけ下に落ちた。しかし再度駆け上り、今度は鑓で突かれてがけ下に落ち命を落としている。
綿考輯録によると約20間(36m)落下したとある。
この崖を上った一団が本丸一番乗り(松井新太郎)を果たしている。二の丸を経て本丸を目指した一軍より先に本丸に入っている。
この中に金左衛門に働きの証人を頼んだ沢彦右衛門がいた。彦右衛門は疵を負いながらも相手を打ち取り功名を上げた。
金左衛門の家来・浅川喜平次がこれを見届け証拠状を書いている。それぞれの運が命を左右していく。

金左衛門は朽葉色の大差物を着けていたようで大いに目立ったのであろう。
御承知のように金左衛門は尾藤知宣の二男であり、寛永十二年に細川忠利に3,000石出召し出された。
そのことを恩義に想っての出陣であった。
尾藤家が没落後、その家紋・桔梗紋がつけられた軍備品や什器等は秀吉により加藤清正に下げ渡された。
加藤家が「蛇の目紋」と「桔梗紋」を並べて主紋としているのはその故である。

                

その後尾藤家は、武勇の家らしく「違い鉞(まさかり)」を家紋としている。後代の家紋帖をみると、先祖由来の「桔梗紋」も使われているようである。
先祖の栄誉を想っての事であろう。

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