「平成肥後国誌」の著編者の高田廉一Drは、私が親しくDrと表示するようにお医者様であった。
独力であの大部の「平成肥後国誌」を刊行されたのである。熊本の歴史に興味ある人ならば、一度はこの著偏書に目を通されたことであろう。
そして大いなる恩恵を拝受している。
史談会の大先輩であり、大師匠であるが大変親しくしていただき、あちこち私の車にお乗せして出かけたものである。
街角の食堂をよくご存じであちこちでラーメンやチャンポン、中華料理をご一緒したりした。コーヒー店で数時間過ごすこともあった。
最晩年は病で寝込まれ、どんなに連絡を取ろうとしても拒絶され、そして訃報に接することになった。まわりまわって死去の情報が届いたが、お葬式に関する情報さえご家族が秘匿され出席がかなわなかった。
史談会の若い友人N君は、先生に心酔した最後の弟子とも言ってよかろう。私が証明するところである。
一周忌にはお墓参りをするからと、誘われて嘉島町のお寺を訪ねてお参りしたことであった。
先生の膨大な書籍や写真、いろんな著作の原稿や、数多くの愛用のカメラや、いろんなチラシ、其の他雑多な収集品が残された。
熊本の「大宅壮一文庫」みたいなものである。それらの遺品のかたずけをN君がかって出た。週一で数か月に及んだ。
ご家族が引き取られたものは、貸倉庫にはこばれN君も加勢をして分別作業が進められた。
そして、ご家族が廃棄しても良いという、原稿や数万枚という写真やネガ等をN君が引き取ったのである。
処が、膨大な蔵書家であるN君の部屋には収納不可能な状態となった。
そこに救いの手を差し伸べられたのが、同じく史談会のO様である。
熊本地震でご自宅は半壊、ようやく住宅の建設が始まったが現在は「見なし仮設住宅」のマンション住まいなのだが、ここに段ボール箱にして20個ほどを預かっていただいている。今年の末には新居に入居されるが、この段ボールをまた引っ越しさせねばならないのだが、行く先が見つからずこれが大問題である。N君にしてみればDrの最後の愛弟子として、処分などは考えられないのである。
N君は今回、先生が「森都医報」に連載された102回に及ぶ原稿を整理して、これをDVDに焼き付けて私にも頂戴したところである。
彼の努力には大いに頭が下がる。先生も大喜びされているに間違いない。
史談会で講話などをお願いすると、「しゃべりきらん」と仰って、強力に拒否されるDrであった。
個々でお話するにはあまり能弁ではないが私やN君にはよくお話をされた。
まだまだいろいろ教えていただくことが沢山あったが、誠に無念のお別れであった。もうなくなられて4年になる。
N君は若いのに御命日の前後に日を選び毎年お墓参りを欠かさない。刊本になっていない原稿を大事に保管しているが、これを刊行するのが彼の望みである。彼の希望が叶うようになんとか方策を考えなければならない。
思いがけず先生の遺稿にふれ、先生が母校・久留米大学医学部同窓会会報に連載させた、熊本のに関係する歴史上の人物の論考14編も何とかまとめなければならないと考えている。この遺稿を読むといろいろお手伝いをした思い出が浮かんでくる。