津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■元和九年・十一月「宇佐郡黒村幷山袋村給知庄屋等申状案」

2019-08-04 12:00:22 | 細川小倉藩

                                  
12宇佐郡黒村幷山袋村  
|     

  給知庄屋等申状案   |     申上覚                  山路太左衛門殿知行
             | 一、高弐百弐拾六石三斗壱合弐夕                 黒村
             |                          武田左内殿分
             | 一、高百九拾四石六斗九升五合           久野二郎左衛門殿分 山袋村
             |                          牧長三郎殿分
   竿つまり      |   右両村之儀、御けん地御竿つまり申、迷惑仕候、其上、田畠共ニ、上中下のはまり、殊外ちかい
             |   申、中や下の所も、上々・上なとニ付申、めいわく仕候、殊ニ御帳ニ壱反と付申処、七畝、八畝
   作徳分ナシ     |   御座候ニ付、三ケ一被下候分を、下地ニ而畝の不足御座候ヘハ、作とくの分少もム御座候而、め
             |   いわく仕候、其故、百性走り申、相残ル百姓として、右之高ニ懸り諸役等まて仕候故、百性かし
             |   け申候条、御竿、上中下之はまり、御なをし被下候へかしと奉存候、以上
             |     元和九年十一月十九日          山路太左衛門殿御庄や黒村ノ
             |                                藤七郎
             |                              同百性現右衛門
             |                              同百性清二郎
             |                         武田左内殿分山袋村庄や
             |                                助兵衛
             |                         久野二郎左衛門殿同百性
             |    御奉行様                 牧長三郎殿    善七
             |

   惣奉行等用状案   |
   竿ノ違ハ次ノ検地  | 一、竿之違は、重而之検地を相待可申候事
   ヲ待ツベシ     |
   郡役ハ百石ニ十石  | 一、御郡役之儀、高百石ニ付、拾石宛、免被遣候事
   宛ノ免       |
             |       以上
             |     元和九年十一月廿七日         西郡刑ア少輔
             |                        浅山清右衛門
             |         上田忠左衛門殿        仁保太兵衛
             |         釘本半左衛門殿        横山助進
             |
                                                                      

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■清田家系図に対するご指摘

2019-08-04 07:44:25 | 歴史

 以前「清田家家系図を精査する」を書いた。その折、大変秀逸な宮本次人氏の「花久留守‐宮本次人キリシタン史研究ブログ」をご紹介したが、教えられること多大なものがあった。そして先日その宮本氏からメールを頂戴して、以下のごとくのご教示を頂いた。
複雑な人間関係がまだ私を混乱させており、二三の修正を加え再度とりあげてみた。

 1、清田家の豊後国における最期の当主・鎮忠と、大友宗麟の長女ジュスタ(前夫・一条兼定)が結ばれたのは1575年(ごろ)。
  その後、豊後国を後にして長崎に向かう1587年までの12年の間に生まれた夫妻の子どもは、イエズス会の記録によると―、

     ・1576年生まれの女子
     ・1578~79年生まれの女子
  の、娘二人ののみでした。このうち前者は1578年春ごろ、「二歳くらい」で病死します。
  後者は「嗣子になる幼い娘」(チースリク氏は「世継ぎとなる娘」と翻訳)と表記しているように、彼女は「幼い」ながらも女子にして
  清田家を継ぐこととなり、のち1586年に「ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟を養子に」迎えています。
  これが「凉泉院」と「主計鎮乗寿閑」(洗礼名ドン・ペドロ)となるようです。

 2、問題は「マグダレナ清田」です。この女性は1627年、長崎にて58歳で殉教しますので、逆算すると1569年の生まれとなります。
  したがって鎮忠・ジュスタの実子ではなく、おそらくはジュスタの連れ子であると考えられます。
  1569年当時、ジュスタの夫が一条兼定であれば、同二人の子どもになると思われます。
  ジュスタの「連れ子」の存在は、狩野照己著『大友の末葉清田一族』掲載の史料に、「土佐國騒動故、幼稚姫共帰豊後」(同書38頁)とあります。

 3、これらジュスタの娘3人(うち2人は鎮忠との間の子ども)を年齢順に並べると、?マグダレナ清田(ジュスタの連れ子)、?1586年生まれの娘(2歳で夭折)、
  ?1578年生まれの「嗣子となる娘」(後の凉泉院)、となります。

 4、宣教師文書は、他にひとり、1620年6月17日小倉で殉教した同名の「マグダレナ清田」を記録しています。
  この女性は鎮忠の弟「ロマン清田」の「義兄弟」にあたる「シモン清田卜斎(同じく1620年8月17日殉教)です。
  これについてはH・チースリク氏(故人)が著書『キリストの証し人』(聖母文庫)で「修道院から逃げた聖者―福者シモン清田卜斎―」のタイトルで
  裏付け史料をもって述べています。
 「マグダレナ清田」の別人(1620年8月17日小倉にて殉教)についてふれましたが、彼女は「シモン清田卜斎」の夫人です。
  ジュスタの娘ではありません。

 5、小さいことですが、お示しの「清田家系図」で「清田掃部鎮忠(寿閑)」とありますが、「寿閑」は鎮忠の娘婿「主計鎮乗」を指して
  いると認識しておりますが、いかがでしょうか。              ご指摘のとおりであり訂正する。

 6、また、「一色氏女」は、一条兼定の(前)室となっているようですが、この人は清田鎮忠の「前室」とお聞きしていますが、お尋ねします。                           認識不足でした。鎮隅、五郎大夫兄弟の生母という事もありうるのか?

    

                    +--鎮隅(天正15年・1587)豊前長野一揆に出陣し、戦死
            ●       | 
                ‖-------------+--五郎大夫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(二百石・直家)
      清田掃部鎮忠                ・    
          ‖       ・
  連れ子・一条兼定女     
          ‖       +--マグダレナ・キオタ(殉教・列福)(レオン・パジェス著、日本切支丹宗門史・下巻)
          ‖       |  
            ‖-------------+--●(夭折2歳?)         
 大友宗麟-----ジェスタ        |               
                    +------凉泉院    大坂陳一番槍高名・石見
                       ‖-------+--七助乗栄(室・忠興妹伊与の娘)・・・・・・・・・・・・・→(二百石・弥八郎家)                

                  +----主計鎮乗・寿閑|                            
                  |         +--与三右衛門(刑部家附)
                  |         |   
                  |         +--左近右衛門
                  |                      |
                  |         +---幾知(圓通院)      +--立孝・・・・・・・・・・・・・→(宇土細川家)
                                                 |                    ‖ -----------------|
                                                 |               細川忠興            +--興孝・・・・・・・・・・・・・→(細川刑部家)
                  |
                  | 実兄                  初代               
                  +----志賀親次------虎左衛門------少兵衛・親勝・・・・・・・・・・・・・→(二百五十石・志賀太郎家)

 

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