津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■天草切支丹一揆残照・富岡城

2019-08-25 17:32:59 | 歴史

                    

 熊本県内で熊本市から一番遠距離の一つになるのが、天草苓北町である。その最北端の富岡半島に富岡城がある。
天草切支丹が攻め入った御城だが、二回の猛攻に耐えた。
富岡城は唐津藩・寺沢氏が関ヶ原戦後拝領した飛び地である。城代を置いて統治せしめたが、実質21,000石とされる地を40,000石を実高となして住民を苦しめた。
城代を勤めたのがガラシャ夫人の甥にあたる三宅藤兵衛であった。三宅自身が切支丹であったが、一万数千の天草切支丹を苦しめる結果となり、一揆を誘発せしめた。
唐津から富岡はさすがに遠い。富岡に駐屯するわずかな手勢で、切支丹の反乱を鎮めんと奔走する中で戦死することになる。
無念の思いであったろうと察せられる。細川家も忠利の従兄にあたる藤兵衛の動向については随分気にしているし、隣藩の事ゆえ手出しできぬいら立ちが見て取れる。
藤兵衛戦死後、天草四郎を首領とする切支丹は、勢いを得て富岡城を二度にわたり攻撃するが、これは失敗に終わった。
一万数千の天草切支丹は、海に逃れ有馬一揆に合流していく。有馬一揆が切支丹一揆へと様相を変えていく。

                
                                          ウィキペディアから引用

 原城から富岡までは24キロほどの距離だが、原城に籠城した天草の人々からも、遠く富岡の城が望めたかもしれない。
苛政に対して立ち上がった切支丹の人々は、まさに異郷の地で命を落としていくのだが、如何なる思いであったろうか。

寛永15年2月27日、夕刻には大方の決着がついたという。残照の中闘うすべもない多くの天草切支丹の人々が命を絶たれた。
天草の地は歴史に翻弄された哀史にあふれている。

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■クーラーを切りました

2019-08-25 09:01:27 | 徒然

 連日、24時間フル稼働させていたクーラーを今朝ほど消しました。
昨日は外気温が随分下がりましたがそれでも湿度が高くて除湿で動かしていましたが、今日はそれ以上に外気温が下がりました。
今日は22~23度が最高気温だといいますから、7~8度下がって、いつものTシャツ・短パンでは少々涼しすぎて秋仕様の長そで・長ズボンと相成りました。
一週間ほど雨模様の予報が出ていますが、大ぶりの雨ではなく、今朝も曇り空とはいえ明るい空が見えています。
8月の前半はとんでもない暑さが続きましたから、クーラーを切って窓を開けて自然の風を部屋内に取り入れるというのは久しぶりで快適です。
このまま本格的な秋に入ってくれるとは思えませんが、隋兵寒合(ずいびょうがんや)が訪れるという、藤崎宮の秋の例大祭まではまだ三週間ほどありますから夏の戻りが有るかもしれません。
まだまだ油断はできませんね。皆様お身御自愛ください。
草むらでは秋の虫が鳴きだしました。

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■元和拾年 萬覚書(4)

2019-08-25 06:25:40 | 細川小倉藩

                  (元和十年三月)五日

小々性横目ヲ成敗 | 一、小々性衆ノ御横目道休、八つ下刻ニ、御成敗被 仰付候
忠利ノ足袋ノ調整 | 一、御たひ三拾足仕立、相調次第ニ、御跡ゟ江戸へ可差越ノ旨、 御直ニ、藤右衛門ニ被仰付之由候
穂蓼ノ種子ヲ植栽 | 一、速見郡へ、ほたでの種子ヲ取ニ遣、うへさせ置可申旨、被 仰出候事

                            穂蓼 「たで食う虫も好き好き」の蓼ですが、何にお使いでしょうか?

徒引キノ網    | 一、かち引の網、上方へ持せ被遣候被成御座候ニ付、小早ノ御船頭久兵衛ニ渡ス
         |   (古保、松井興長室、細川忠興女)     (速見郡)
松井興長室ノ人足 | 一、おこほ様中津ニ被成御座候時ハ、木付へ人足ノ儀被 仰遣間無之候間、此方ニ而人足可申付 御
         |   意事
金山見分ノ命   | 一、金山へ折々参候而、見つくろいそうろう而、可申付 御意事
         |       (豚)(山羊)
長崎へ豚山羊ノ用 | 一、長崎へ、ふた・やき取ニ可遣 御意事
諸奉行帳を上グ  | 一、前廉、被成御出シ諸御奉行帳、指上ケ申候事
無足人ノ扶持方  | 一、無足人衆ノ御扶持、上ケ申候事
牧場ニハ駄馬ノミ | 一、まき馬参候而、はなしそうろうハヽ、だ馬斗ニて可有之候間、三齋様ゟ参候大かけはなし可申旨、被
三齋ノ大鹿毛ヲ放 |   仰出候事
サシム      |              御船頭
大橋鎖上ゲノ御印 | 一、大橋くさり上申候 御印、〇手嶋茂大夫方ニ、相渡申候事
薩摩ヘノ牧馬牽ニ | 一、薩摩へ、牧馬引ニ被遣候時、諸白樽拾四、被遣候事
諸白ヲ持タシム  |
         |   三月五日                             (幸長)
唐人少峯へ貸米二 | 一、少峯、米弐わり半ニ〆かし可被下由、申上候状、野田小左衛門・豊岡甚丞預り申候
割五分ノ利    |
         |   三月五日
薮政三ヲ召放ス  | 一、薮三左衛門被放御扶持候ニ付、御借米・御懸銀等之事、中津御奉行衆ゟ被申越候状、小左衛門・
         |    薮家2代図書弟・2,000石 寛永元年退去、紀州家に仕える
         |   甚丞預り置申候事
         |        付 (喜左衛門)(平兵衛)        (薮正成)       (文左衛門)
諸白樽ノ用    | 一、諸白樽ノ儀〇■■■金子・寺嶋方へ遣状一つ、図書所へノ状一つ、長谷部所へ之状一つ、横田権
         |   佐ニ言伝遣申事
         |
         

                  (元和十年三月)五日

忠利出船ス    | 一、殿様御出舟、四つ時ニ、御舟ニ召候事
諸奉行等松丸へ移 | 一、諸奉行衆、いつれも松の丸へ移り申候事
ル        |
         |

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