熊本県内で熊本市から一番遠距離の一つになるのが、天草苓北町である。その最北端の富岡半島に富岡城がある。
天草切支丹が攻め入った御城だが、二回の猛攻に耐えた。
富岡城は唐津藩・寺沢氏が関ヶ原戦後拝領した飛び地である。城代を置いて統治せしめたが、実質21,000石とされる地を40,000石を実高となして住民を苦しめた。
城代を勤めたのがガラシャ夫人の甥にあたる三宅藤兵衛であった。三宅自身が切支丹であったが、一万数千の天草切支丹を苦しめる結果となり、一揆を誘発せしめた。
唐津から富岡はさすがに遠い。富岡に駐屯するわずかな手勢で、切支丹の反乱を鎮めんと奔走する中で戦死することになる。
無念の思いであったろうと察せられる。細川家も忠利の従兄にあたる藤兵衛の動向については随分気にしているし、隣藩の事ゆえ手出しできぬいら立ちが見て取れる。
藤兵衛戦死後、天草四郎を首領とする切支丹は、勢いを得て富岡城を二度にわたり攻撃するが、これは失敗に終わった。
一万数千の天草切支丹は、海に逃れ有馬一揆に合流していく。有馬一揆が切支丹一揆へと様相を変えていく。
ウィキペディアから引用
原城から富岡までは24キロほどの距離だが、原城に籠城した天草の人々からも、遠く富岡の城が望めたかもしれない。
苛政に対して立ち上がった切支丹の人々は、まさに異郷の地で命を落としていくのだが、如何なる思いであったろうか。
寛永15年2月27日、夕刻には大方の決着がついたという。残照の中闘うすべもない多くの天草切支丹の人々が命を絶たれた。
天草の地は歴史に翻弄された哀史にあふれている。