津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■西南の役、熊本隊出陣の碑がなくなっているけど・・・

2019-08-21 16:15:04 | 徒然

 借りていた本が返す日を超えていた。暑いけれど返すばなるまいとて、午前中すでに炎天の中を自転車で出かける。
本を返し、資料として数十枚のコピーをして、本は借らずに退館。
帰りには、健軍神社前にあった、西南戦争開戦時に熊本隊が出発したとされる場所が取り壊されているという話を聞いて、確認のためによってみる。
たしかに完全に撤去されている。
反対側にあった「出陣の碑入り口」の標柱が基礎もろとも動かされて置かれていて、かろうじてこの木立がその場所であったことを表している。
どこへ動かしたのだろうか。出陣したのはこの場所なのだから、どこかへもっていくという訳にはならないはずだが・・・?
狐に化かされたような話ではある。

          

                  ■街角の風景・西南の役‐熊本隊出陣の場所

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■元和十年・正月「京都郡惣庄屋稲光某申状案」

2019-08-21 08:35:53 | 細川小倉藩

22京都郡惣庄屋稲光某 |
  申状案       |      申上覚
   牢人ヲ開拓ニ移住 | 一、八田山と申新在所へ、牢人〇去年ゟ御郡奉行衆へ申上、うつし置申、田畠壱町見立、開可申候間、
   セシム      |   御米三石御かし被下候ハヽ、当秋、加四わりヲ上納可仕候事
            |                 権現
   等覚寺山伏役儀免 | 一、京都郡ノ内、登覚寺と申山ニ、護見御座候ニ付、山伏弐人居申候、彼山伏申候ハ、作高三拾石ほ
   除ヲ願ウ     |   と御座候、此御役儀御ゆるし被下候様ニ申上候、左御座候ハヽ、せかれとも山伏ニ仕立、彼登覚
            |   寺たいてん不仕様ニと、申上候
            | 一、登覚寺山御給人ハ、深野左介・荒見弥太夫御知行ニて御座候事
            |   右之前、可然様ニ被仰上可被下所、如件
            |                           京都郡御惣庄や
            |     元和拾年正月十九日                 稲光五郎兵衛
            |         白井兵助殿
            |         宗像清兵衛殿
            |
   惣奉行等用状案  |
   忠利裁許     |   右表書之通、白井兵助・宗像清兵衛得 御諚候ヘハ、被 仰出趣之事
            | 一、八田山之牢人ニ、御米三石かし可申之旨、被成 御意候間、借状を調、請取可申候事
   鍬下年季ハ六年  | 一、八田山開、申年季之儀、御郡奉行衆と吟味被仕、於悪所は、先年御定之ことく、六年目ニ御年貢上
            |   納可被仕事
   山伏ノ役儀ヲ免除 | 一、登覚寺ノ山伏ニ、御公儀約之分は、被成 御赦免候間、丈夫ニ作可被申付候事
   ス        |
            |     元和拾年正月廿一日           西郡刑ア
            |                         浅山清右衛門
            |                         横山助進
   惣庄屋稲光某宛  |             御惣庄屋五郎兵衛との
            |
            |    小六連島(馬島)
   惣奉行等用状案  | 一、こもつれ嶋ニて、田地七、八段程、長門之内、大もつれゟ開申、来年ゟ御百姓を仕すへ、人家を
   別件       |   も立申へきと、申者有之由候、しからハ、竹木をも可遣候、免相之事ハ、彼開申所見届申上、以
            |   来共ニ、かのもの共かんにん続候様ニ可申付候間、其通申聞せ、右やくそくのことく、嶋中いか様
            |   成共ひらき、以来、御百姓ニなり立候様ニ、可被申渡候、以上
            |     元和十年二月四日            西郡刑ア
            |                         浅山清右衛門
            |             石原二右衛門殿     横山助進
            |

 

      今回を以て22件の「申状案」は終了しました。次回からは元和十年三月以降の「萬覚書(奉行所日録)」を取り上げます。        

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■有馬日野江城跡

2019-08-21 06:53:18 | 歴史

             

 かっての肥前有馬氏の居城・日野江城跡である。有馬氏の縣(延岡)転封後入国した松倉氏も、森岳城(島原城)が完成するまでは、この城を居城とした。
所領40,000石身の丈に合った御城であったろう。
400年にわたりこの地を統治した近世初頭の有馬氏の時代は、自らが切支丹でもある有馬氏と共に、多くの切支丹住民が穏やかに過ごしていた。
すべては松倉氏の入部以降の苛政がこの地の住民を塗炭の苦しみに貶めた。
有馬一揆の舞台となった、南島原市の現在である。

コメント (2)
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