ある文書を読んでいるが、どうしても判らない文字がある。文章の前後から類推するにも不可能である。
「くずし字解読辞典」で探すが該当するものを見つけ出しえない。ならばと「くずし字用例辞典」のページをめくるがなにせ1,300頁ほどあるから大概でくたびれて一時ストップ。
こりゃ~別に方法を考え出さなきゃと頭を巡らすうち、東大史料編纂所の『木簡画像データベース・木簡字典』を思い出した。
該当文字をスキャンして画像をドラック、処がヒットしない。
しかし、いくつかの文字が出てきた中にヒントがあった。もしやと思い再び「くずし字解読辞典」で探す。
それでも確実な崩し字は見つからない。そこでもう一つのアイテム「電子くずし字字典データベース」に文字を打ち込むとそれらしい文字がヒットした。
間違いないと思われるが、前後の文章にしっくりこない。前後の文字も怪しくなってきた。
こんなことをしながら、6~7時間を費やしてしまった。しかしこのような事は日常茶飯事である。
「結果良ければ全てよし」だと承知しているが、まだまだ結果が出るには遠い道のりがある。
天草島原の乱の主なる舞台は長崎県の島原地方である。この地方を有馬氏が400年間支配してきた。
日野江城を本拠地として切支丹の天国とも言わる時代があった。
「江戸時代初期には晴信は4万石を領し、日野江城は島原藩の藩庁となった。しかし、慶長17年(1612年)晴信は岡本大八事件に連座した罪により甲斐国で切腹となった。嫡男直純が後嗣となったが慶長19年(1614年)に日向国延岡城に移封となり、有馬氏は約400年間にわたる在城に別れを告げた。」(ウイキペディアより)
直純は父晴信の罪により所領を失うが、室・国姫が徳川家康の養女であったことから連座の罪を逃れ再度この地の所領を得た。
しかしながら、一転切支丹弾圧に向かい、父晴信の側室やその二人の幼い子女を殺害したりしている。
切支丹の弾圧に転じた家康の意向をくんだ国姫の進言でもあったのだろうか。
その後直純は自ら志願して転封を申し出て、縣(延岡)へ移っていった。しかし多くの家臣はこの地に残り帰農したとされる。
これ等の人々が、後に入った松倉父子の苛政に反旗を翻したのである。
天草島原の乱に際し、縣の有馬氏も当然出陣している。
一方、久留米の有馬氏も先陣に指名されて出陣した。そうか有馬氏が二人ある???
ここで私は自らの無知を悟ったのである。前者は肥前有馬氏とよばれるが、後者は摂津有馬氏とよばれて、そのルーツを異にしている。
有馬直純は乱の後の寛永18年参勤の途中で客死し、孫・清純の頃その悪政により無城主に格下げとなり越後糸魚川藩、越前丸岡藩に転封されている。
久留米有馬家の初代の有馬豊氏は福知山(8万石)から13万石の加増を得て元和6年に久留米(21万石)に移封され、明治に到っている。
この人も家康の養女・蓮姫を正室としている。
九州における二つの有馬氏の栄枯盛衰を見る思いがする。