三四か月前の史談会で、会員のMさんが熊本城内にある「三の丸駐車場」という名前について疑義を呈せられた。
三の丸の領域が定かではなく、何気にそうだよな~という雰囲気で話は終わった。
2017年3月末に発刊された、永青文庫研究センター年報・第8号の後藤典子氏の論考「細川忠利期における熊本城普請-近世初期の城普請・公儀普請・地方普請-」を読んでいたら、この「三の丸」の文言が登場してきて、ますます頭を混乱させている。
覚
一、(略)
一、ニ之丸と三ノ丸之間ニ弐百弐拾壱間(約400m)、水おとしのみぞ御座候、ふかさ壱間又ハ弐間余も御座候、事外
わきそこね候間、はゝ三間ニ仕、みぞわき石垣ニ仕度奉存、
一、熊本しまり不申ニ付而、三之丸しめの事、口上ニ申上候、但、此儀者不入様ニ思召候ハヽ、被得 御諚間敷候事、
(寛永11年)三月十七日付 願書の覚「御自分御普請」分・下・四五)
このことについては幕府から4月14日付で願書の通り老中からの奉書が届いている(略す)。
又、天草島原の乱の後始末が多忙の中、忠利は、熊本城下から川尻を結ぶ井手を拡幅し高瀬舟が通れるよう浚渫することの願を出している。これと同時に坪井川の浚渫も併せて願出た。
覚
一、(略)
一、熊本の城、三之丸之内を坪井川と申小川ながれ申候、町人其外用のため、常に此川のすなを取、用をかなへさせ申
度候、所ニより水のたまりハふかき所も御座候、其外はひざぶしだけも無之程のすな川にて御座候、城之内をなか
れ候川にて御座候故、申上事ニて御座候、何も肥後へ御下之衆御存知たるへき事、
(寛永16年)六月朔日付 口上の覚「御自分御普請」文・下・四五)
このことについては七月十二日には許可が下りている。川浚え等は届け出の要はないとでもいう感じではある。
さて本題、これらの文章から、「三の丸」が何処に存在していたのか、推測しろと言っても無理な話ではある。
「三の丸」の領域について御存知の方がおられればご教示を乞いたい。