津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■長宗我部盛親は生き延びた・河田八右衛門という人

2020-10-02 18:07:43 | 人物
 長宗我部友親氏の著「絶家を想う」を読んでいたら、私の縁戚の人の名前が出ていた。
その久武家の祖は長宗我部の家老職を勤めた人物だが、加藤清正に仕え、加藤家没落後は細川家に仕えた。
我が家の5代目の室が久武家の出であり、私はいささかDNAを受け継いでいる。
当主K氏には御目にかかったことはないが、従弟にあたられるFY氏とは御懇意にしていただいている。
その久武家には古い文書が遺されているらしく、長宗我部氏の著ではこれを紹介され驚くべきことが書かれていた。
長宗我部盛親は土佐を逃れ、「熊本の加藤清正を頼ってゆき、そこで」久武親直と名前を変え、さらに河田八右衛門と姓名を替えた。」(p109)と記されているという。六条河原で斬首されたのは影武者ということになる。
 
 現在掲載している「細川小倉藩」のスタートは 2010‐06‐17の 細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年五月(1)だが
この中にたびたび「河田八右衛門」という人物が登場する。
わが「肥後細川藩侍帳」によると「御六様(光尚)付」で100石と紹介している。
盛親は慶長20年(1615)5月15日に亡くなっているが当時41歳であったとされる。
河田八右衛門の名前は「細川小倉藩」の初回から見受けられている。元和9年といえば1623年、8年が経過していることになる。にわかには信じがたいが、こんな話が縁戚の家から出てくるとは驚きである。
「肥後細川藩侍帳」を改訂しようとする中、河田家の資料を詳しく眺めてみようと思っている。
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■細川小倉藩(364)寛永六年・日帳(二月十二日~十四日)

2020-10-02 06:30:11 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年二月)十二日 ~十四日                

         |       
         |     十二日  加来二郎兵衛
         |                         (寰)

唐犬長崎ニテ調ウ |一、野田小左衛門ゟ、唐ノ犬長崎ニ而被成調候間、明官状を持せ可遣由、申来に付、御小人六右衛
         |  門・五郎介両人ニ明官書状を持せ、長崎へ遣候事、
         |一、明日江戸へ、御能衣装持下候御鉄炮衆井門亀右衛門尉与町田口吉左衛門尉・山内勘兵衛与靍田う右
         |  衛門尉也、

         |       
         |     十三日  石本三介
         |

能衣装幷鶴ヲ江戸 |一、御鉄炮衆町田吉左衛門・靍田宇右衛門、今日江戸へ遣候、御能衣装幷靏五つ持せ遣候、言上其外
へ送ル 江戸諸方 |  状とも相渡候事、
ヘノ音信物    |
 硯       |  一、磯部長八郎へ野田源四郎ゟ、御硯のよしにて壱包遣候を、相渡ス、
         |  一、寺嶋主水所へ、いよとのゟノ帋包相渡候事、
         |    (米田是季) (成政)
         |  一、監物殿ゟ、坂崎清左衛門尉への状壱包相渡事、
         |  一、御ふたなき竹箱壱つ渡候事
         |  一、三斎様ゟノ御返書之御文箱三つ、幷中津御奉行衆ゟ、江戸 三斎様御留守居衆への文箱壱つ、
         |  一、殿様へ、御こほ殿ゟ被進候御文箱壱つ、但、言上ノ文箱ニ入也、
         |          (松井康之室)江戸證人
         |  一、御こほ殿より、自徳院への御文壱つ、
         |   (坂崎)
         |  一、同一角所へ被遣候御文箱壱つ、但、言上ノ文箱ニ入也、
         |  右之分、御飛脚ニ相渡候也、
         |一、右之御飛脚乗せ上候御舟頭は江口彦左衛門尉也、
路地ノ松葉    |一、御路地之善吉申候ハ、松之葉をとらせ候へと申候、御小人弐か申付由、申渡候事、

         |       
         |     十四日  安東九兵衛
         |

江戸へ廻米    |一、江戸へ御米積廻候御船頭、手嶋茂大夫・中村喜兵衛両人可遣旨、かゝみ善右衛門ゟ申越事、
         |                 (規矩郡)
矢山ノ駄馬死ス  |一、御馬や小頭加介登城にて申候ハ、矢山之だ馬壱疋死申候由、被申候事、
置囲炉裏鋳造   |一、矢野勘右衛門被申候ハ、おきいろりいさせ申候ニ、御奉行壱人可被下由被申ニ付、横田権佐存
         |  申、被申候へと、権佐方へ申遣候、得其意、はや申付候由、返事被申事、
椋板       |一、むく板七拾五枚、長さ四尺八寸・はゝ壱尺五寸・厚さ三寸、田川郡添田近所ニ御座候由、今戸半
         |  四郎申候事、
松葉採集ノ奉行  |一、口御納戸ノ御番衆彦左衛門ハ松葉ひろい申奉行ニ申付、遣候事、
松ノ丸銀ノ番   |一、同御番衆一人ハ、松ノ御丸御銀番ニ付候事、
         |一、歩之御小性釘本兵蔵・森左平次・永屋才三郎・香山清兵衛・舟瀬忠三郎・山村三丈、此六人ノ内
歩小姓ノ在江戸番 |  ニ而、くし取にて、江戸へ一人遣候ヘハ、あとばん・さきはんとも二人数無甲乙様由、与わキ角
ヲ鬮取ニス    |                                      〃
         |  介・兵介被申候、併、才三郎ハ兄弟の内一人ハ今度御供ニ参候間、一人ハ不参様ニ被仰付被下候
         |  様ニと被申候、尤ニ候由申候、又清兵衛ハ御用被 仰付候間、是も不成候、又釘本兵蔵はせかれ
         |  ノ儀候、然上ハ、くし取ハ成にくさうニ御座候間、兵蔵を除置、重而与ノ儀得 御諚可申候、さ
         |  候ヘハ、あとさき共ニ先大分ノ人数ニ候間、兵蔵をハのけ、残五人を与わけノくし取可被仕由、
         |  申渡候事、

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